見出し画像

高校日本史「学習プリント」⑤~推古朝の政治と国際関係~

プリントの構成

 このプリントから飛鳥時代へと入っていきます。今回扱う範囲は有名な聖徳太子が出てくる時代です。この時代の主役をあげるとすれば、実は聖徳太子ではなく、蘇我氏です。聖徳太子の存在も蘇我氏の台頭なくして語れません。そしてもう一つ重要になってくるのが隋による中国統一です。約150年間続いた南北朝時代がおわり、隋という大国が出現します。この東アジアの変動にヤマト政権も対応を迫られることになります。この2つを軸において、時代の流れを理解できるようにフローシートを作成しました。

解説

① 蘇我氏の台頭

 前回出てきた欽明天皇の時代から始まります。継体天皇を擁立した大伴金村が物部尾輿などから任那4県割譲時に賄賂を受け取ったなどと批判され、失脚します。これ以後、大伴氏は衰退していきました。欽明天皇と血縁関係を結んで新たに台頭したのが蘇我稲目(馬子の父)でした。蘇我氏は葛城氏を源流とする一族と考えられており、渡来人集団を支配下に置き、大王の三蔵(斎蔵・大蔵・内蔵)の管理や屯倉の経営などヤマト政権の財政を担当していたと考えられています。
 百済から伝わった仏教を欽明天皇が受け入れるべきか群臣に対して問いたことをきっかけに豪族間で崇仏論争がおきました。仏教公伝がいつかは538年説と552説があり、前者は『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺縁起』を、後者は『日本書紀』を根拠としています。前者の方が可能性は高いそうです。崇仏論争は大臣の蘇我稲目は仏教の受容を勧めた(崇仏派)のに対し、大連の物部尾輿中臣氏は反対しました。欽明天皇は意見が割れたため、稲目に私的に祀ることを認めましたが、公式に仏教を受け入れるかは結論が出ませんでした。
※崇仏論争については近年、物部氏が廃仏派であったというのは『日本書紀』の虚構であり、むしろ物部氏と蘇我氏の権力闘争であったという説が有力となってきています。
 その後、蘇我氏と物部氏の対立は両者の子どもの代へと移っていきます。欽明天皇の後、敏達・用明(聖徳太子の父)と続きますが、用明天皇の死後、蘇我馬子物部守屋の間で武力衝突が起こります。用明天皇の後継者をめぐっての争いだったとも考えられています。その結果、物部守屋が滅び、物部氏は衰退することになります。主導権を握った馬子は血縁関係のある崇峻天皇(母が稲目の娘)を即位させます。しかし、崇峻天皇は馬子や他の豪族と協調して政治を行うことが出来ず、馬子によって暗殺されてしまいます。ちなみに日本史上で唯一臣下により天皇が暗殺された例です。暗殺という非常事態で跡継ぎが決まっておらず、蘇我氏の血を引く厩戸皇子はまだ19歳で天皇(大王)になれる年齢ではありませんでした。(当時、天皇への即位は少なくとも30才以上になってから行われていたと考えられている)そこで、中継ぎとして、敏達天皇の后で蘇我氏の血を引く推古天皇が即位します。これにより推古・大臣の蘇我馬子・摂政(当時このような役職はないが)の厩戸皇子(聖徳太子)の3人を中心とした、蘇我氏の血縁者による権力集中体制がとられました。
 

②隋の中国統一と遣隋使

 推古天皇が即位した3年前に東アジアでは大きな変動の時代を迎えます。約150年間続いた中国の南北朝時代がの中国統一によって終わりました。中国に隋という大国が成立し、598年に隋が高句麗遠征を行ったことで東アジアの国際的緊張が高まります。その情報が日本にも入ってきたのでしょう。600年に初めて遣隋使が派遣されました。この第1回目の遣隋使は中国の歴史書である『隋書』には記載がありますが、『日本書紀』には記載がありません。その理由は、隋の文帝に政治制度が未熟であることを指摘されて相手にしてもらえなかったことが原因だと考えられています。
 この遣隋使の帰国後、中国にならった国家体制の整備のための改革が行われます。冠位十二階(603)は、氏族ではなく個人の才能や功績に対して冠位を与えることにより、豪族を天皇のもとに官僚化しようとした改革です。ですが、蘇我氏や王族は対象外になるなど、限界もありました。憲法十七条は(604)は豪族たちに官僚としての政治道徳を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んじるものでした。これらの改革の後に再び、小野妹子を大使として2回目の遣隋使が派遣されました。この時の隋の皇帝は2代目の煬帝で「何のようだい?
」と聞いたそうです(嘘です)。妹子は煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に…」から始まる有名な国書を渡します。これに対して煬帝は激怒しました(諸説あるが、倭の王が中国の皇帝のみが称する「天子」の称号を使っため)が、倭の遣隋使を受け入れました。受け入れた理由は、再びの高句麗遠征を控えていて、倭と高句麗を接近させたくなかったからだとも考えられています。この時、倭は冊封を受けなかったため、隋と対等な立場を築いたと昔からいわれていますが、否定する説もあります。中国の皇帝は朝貢してきた国に対して必ず冊封をするわけではないのと、中国の皇帝が対等と認める国はないことと、実際の力関係的に対等と主張するのは無理があるからです。日本側が対等としたかった(当時も、後世の歴史学者も)という側面が強いと思います。実際に遣隋使も朝貢の使者として受け入れられ、日本に対して答礼使として裴世清(または裴清)が日本に派遣されました。そして、裴世清を隋へ送り届けるために第3回の遣隋使が派遣されました。この遣隋使には留学生の高向玄理や留学僧の旻(または日文)・南淵請安らが同行し、中国に滞在して政治制度・思想・文化について学び、帰国後に大化の改新で活躍することになります。
 隋は高句麗遠征の失敗や大運河の建設などにより民衆へ重い負担がかかり、民衆が離反して内乱が起こって統一からわずか30年弱で滅びてしまいます。その後、混乱の中で建国されたが628年に再び中国を統一し、630年に初めての遣唐使として犬上御田鍬が派遣されました。
 同じころ日本では推古朝の政治を担った聖徳太子・馬子そして推古天皇が亡くなり政治の主役が交代していきました。馬子死後、権勢を握ったのがその子の蘇我蝦夷です。そしてまた、その子が蘇我入鹿になります。彼ら親子がその後権勢を握り、最終的に滅ぼされてしまうのですが、その過程については次回にしたいと思います。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?