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福沢諭吉「家庭習慣の教えを論ず」から考える



「家庭習慣の教えを論ず」は『家庭叢談』(1876年)に収められた論考です。私なりに論考を現代語訳して簡単に要約しました。福澤好きとしては要約だけでも読んでいただけたら嬉しいです!!この論考を読んで、現代の教員の視点から考えたことを簡単に記しました。読んでいただけたらもっと嬉しいです。

・要約

 人間は万物の霊で生まれた時点で動物とは違い、動物が食べては駆け巡り、疲れては寝るだけであるのに対して、人は社会で努めなければならない様々な仕事がある。その仕事を大きく区別すれば、第一に健康を保つこと。第二に衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。第三に子供を養育して一人前とし、その子が父母となるに差支えないように教育すること。第四に一国社会の公共の利益のために、力の及ぶだけを尽くしてその社会の安全幸福を求めることの四か条であると福沢は述べる。さらにこれら四か条に加えて、月見や花見、音楽舞踏などの娯楽を楽しむことも心身の活力を引き出すために重要なことであり、余裕があれば第五の仕事にすべきである。
 これら5つの仕事は社会のなかで人が行うべきことであるが、現在の社会ではこれらを全て充分に行うことは難しいことであるから、必ずしも充分(原文まま)でなくても充分に近づけるように努力することが重要であり、私が勧める教育とはそのような力を強くする道である。

 ただ教育といっても意味は広く、読み書きを教えることは教育の一部分でしかない。教育とは簡単に言えば人々が天から授かった能力(才能)を発達させ、人間急務の仕事を成し遂げる力を強くすることである。才能は土の中の種の様なものであり、それを萌芽させ立派に成長させられるかどうかは手入れの良しあしによるものである。教育は能力の培養でであり、生まれてから成人になるまで、父母の言行で養われ、学校での教育によって導かれ、社会の空気や有様にさらされる中で、萌芽して成長するものであるから、その出来不出来は教育の良しあしによって決まるものである。特に幼少の時に子供が見聞きして習慣となったことは、深くその人に染みこんで簡単には矯正することは出来ない。習慣は第二の天性を成すといい、人の賢不肖(賢いか愚かか)は父母家庭の教育次第であるといってもいいほどである。そのため家庭教育は大切にしなければならない。

 世間の父母を見ると、家庭教育が簡単なことだと思い、常に気分次第でその時その時の出任せで対応しているものが多い。その実例を2つ示そう。

例一)子供が誤って溝に落ちて着物を汚したことがあった場合、厳しく叱る親。
例二)子供が誤って柱にぶつかって額にたんこぶが出来て泣いてしまった場合に、子どもを叱らず柱のせいにして柱を打ち叩いて子供を慰める親。 

  両方の例において、子ども自身の誤りであることは変わりないにも関わらず一方では叱られ、他方では慰められるのはなぜか。それは親に格別深い考えがなく、ただ一時の感情に任せているだけだからである。前者は母に面倒をかけるまたは損害のある内容であるため、憤怒の情にまかせて子供を𠮟りつけてしまっているのである。後者は、親には面倒もなく損害もないため、子どもの泣き声を憐れんでか、または泣き声をやかましく思って泣き止まさせるために、柱のせいにしてたものである。たとえ父母に深い考えがないにせよ、父母の行動は皆全て子供の手本となるものであり、前者は怒りに身を任せてしまう手本となり、後者は誤りを他のもののせいにして自身を反省せず、むやみに復讐の気合を教え込むもので、非常に良くない教育である。その他にも𠮟るべきことがある時に父母の気分次第で、機嫌が良い時には褒め、機嫌が悪い時には叱ることの悪影響は非常に大きい。

 父母が、教育と言えばただ読み書きを学ぶことで、それらさえ教えればその子が立派な人間になると思い、自身のふるまいに気を払わないようなものがいる。父母のふるまいによって教えることは本を読んで教わることよりも心の底に染みこむもので、より大切な教育であるから、自身の所業を決してなおざりにすべきではない。子どもといってもいつまでも子どもではなく、いずれ一人前の男女となり社会の一部分で働く人間となるものであるのだから、「事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益あるか妨げあるかを考え合わせて、然る後に手を下すべきのみ」である。

・考えたこと

① 娯楽・遊ぶことの大切さを忘れてないか?

 人間が社会の中で営む仕事を4か条上げた後、最後に娯楽の大切さを5つ目の仕事として福沢は述べている。つまり、娯楽を楽しむ力を養うことも教育の目的に入っている。小学生なら公園で自分たちで考えて遊んだり、中高生なら友人同士でどこかに出かけにいったりすることも教育の一環として大切ではなかろうか?教育のサービス化が進んだ現代において、勉強・スポーツ・音楽様々な面でお金をかけて子どもに与える習い事になっている。それを否定するつもりはないが、教育サービスを与えることに熱心過ぎて、子どもが主体的に遊ぶ時間の大切さが忘れられていないか?遊びの中から養われる非認知能力(点数化できない能力)がたくさんあるはずだ。子供が遊ぶことも教育の一つであるという余裕を社会全体で持ちたいものだ。

② 家庭教育の重要性

 現代で「教育」というと一番イメージされがちなのが勉学だ。そして教育の主体として学校教育の責任が問われることが多いと感じる。どこからが家庭の影響でどこからが学校の影響でという線引きが見えないので難しいところだが、少なくとも勉学以外の面の第一の基盤は家庭であろう。道徳、生活習慣、言葉遣いなどは父母の言行で養われるものだろう。ここで重要なのは「言」だけでなく「行」も入っているということである。子どもは大人が思っている以上に大人の行動をよく見て、真似している。親が「ああしなさい」「こうしなさい」と言っても、親が出来ていなければ子どももいうことを聞かない。親が他人を尊重しないような言葉遣いをすれば、子どもも学校でそのような言葉遣いをするし、親がいつまでもスマホをいじっていれば、子どももそうなるだろう。親は学校に子どもの行動の矯正を頼む前に、一度自分の子どもの行動を鏡にして、まずは自分の行動を見直してみてはどうだろうか?父母の言動は学校でのお勉強より大切な教育です。

③ 感情に流されて子どもを指導しないこと

 福沢が例に挙げている2人の親、現代でもあるあるだなぁと感じます。前者は比較的よく見るし、教員でもたまにそういう人いますね。まあ、そういう人は未熟な教員です。人間自分に損害が出たら嫌ですし感情的になるのは自然なのですが、子どもの前ではいったん頭をひやして客観的に指導してあげて欲しいですね。叱ることは、子どもがもう一度同じ過ちをおかさないように導いてあげることです。「どうしてしてしまったのか」「どうしてこうなってしまったのか」「次どうすればいいのか」などと声掛けをして反省を促してほしいですね。「怒っているよ」と子どもに分からせるのは良いんですが、感情的になりすぎては次につながる反省はうまれません。
 後者は学校としてはやっかいなタイプの親です。過保護またはモンスターペアレントと呼ばれる親にはこのような思考パターンの方が多いです。子どもの過ちが原因で問題が起きたにも関わらず、子ども可愛さに、または子どもの言い分を鵜吞みにして、学校などの環境のせいにするタイプです。近年、このような親が増えている気がします。自分の子どもを「守る」という意識が強く、傷つけないために様々な障害を取り除こうとしたり、親がその障害を解決しようとします。前者は「怒り」、後者は「子供を守らなきゃ」という、福沢のいう親の一時の感情にもとづいて行動しているわけです。
 子どもに問題が起きたとき、ふと立ち止まって「事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益あるか妨げあるかを考え合わせて」、つまり将来その子が社会に出たときに有益かどうかを考慮に入れて、子どもにむきあって欲しいですね。


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