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高校日本史「学習プリント」⑧~奈良時代の政治史~

こんにちは今回は奈良時代の政治についてです。少しボリュームがあります。

フローシートの構成

このフローシートでは平城京遷都から始まる奈良時代の政治の流れをまとめたものになります。奈良時代の政治は皇位継承問題と藤原氏の台頭の2つの軸で展開していきます。奈良時代の流れをつかむためには藤原氏を中心とした政権担当者をベースとして流れをおっていくと良いでしょう。しかし、それだけだと政権担当者と天皇との関りが分からなくなってしまうので左軸に天皇の変遷が分かるようにして、両者を対比しながら学べるプリントにしました。

解説

①藤原不比等

 平城京に都が置かれた時代を奈良時代といいます。710年に平城京へ遷都が行われたことは多くの人が知っています。このプリントでは平城京への遷都から始めていきたいと思います。平城京の遷都を主導したのが藤原不比等です。前回のプリントで出てきた、大宝律令の編纂で活躍した人物ですね。彼は藤原鎌足の子です。特徴的な名前ですが、由来は田辺史一族のもとで養育されためと考えられています。史部って覚えてますか?朝廷において文筆にかかわる職務に携わった人々ですね。田辺史一族は渡来家系の氏族で中国の律令制度や古典に詳しい一族で、不比等もその影響を受けていたと考えられます。最初は「史」と名乗っていたようですが、その後出世していき、「不比等(等しく比べる者なし)」といった漢字表記になったと考えられます。不比等は、最初は下級官人でしたが、持統天皇に重用され、自分の娘の宮子を文武天皇に嫁がせています。その宮子が生んだのが後の聖武天皇である首(おびと)皇子です。しかし、首皇子の父、文武天皇は25歳の若さで亡くなってしまいました。そこで中継ぎとして文武の母の元明天皇が即位します。そして元明天皇の下で708年、平城京への遷都の詔が出され都の造営が始まりました。

②平城京遷都

 はなぜ、まだ出来てから10年ちょっとしか経っていない藤原京から平城京へと遷都したのでしょうか?そこには律令制度の成立が大きく関係していると考えられています。藤原京は飛鳥に近かかったため、なかなか有力豪族(官人)、たちは藤原京内に居住しようとしなかったそうです。そのため、飛鳥から少し離れた土地に都城を作ることによって、有力豪族らを移住させて彼らを京中に居住する官人(役人)として都市民化させることが律令体制を運営していくために必要であったと考えられています。平城京への遷都が決定されたのと同じ年、発効されたのが日本で初めての流通貨幣とされている和同開珎です。発行された目的は労賃の支払いなど平城京遷都のための費用の捻出であるとも考えられています。しかし、まだ当時は米や布などを基準とした物々交換が主流であったため、広くは流通しませんでした。そこで朝廷は711年に蓄銭叙位令を出して流通を促進しようとしましたが、なかなか効果はなかったそうで後に廃止されています。
 そして、710年に藤原京から平城京へと都が遷されました。714年に首皇子が正式に皇太子となったことを見届けて元明天皇は娘の元正天皇に譲位しました。まだ首皇子が15歳と若かった(当時天皇に即位する年齢は30歳以上という慣例があった)ため、再度中継ぎの女性天皇が即位しました。すでに右大臣となっていた藤原不比等は、晩年に大宝律令を修正した養老律令の編纂しますが、施行する前に720年に病死しました。

③長屋王とその死

 不比等の死後、皇族の長屋王が右大臣となり政権を握ります。長屋王は壬申の乱で活躍した天武の皇子の高市皇子と元明天皇の姉の間の子であり、は皇位を継承してもおかしくないほどの血筋でした。長屋王政権では重要な土地政策が実施されています。人口増加による口分田不足に対応するために、722年に道具などを農民に貸し与えて開墾を促す、百万町歩開墾計画を実施しますが、成果を残せませんでした。そのため翌年、三世一身法が出され、新しい灌漑施設を作って開墾した場合は三世代、既存の開墾施設を用いた場合は本人一代に所有を認めました。しかし、結局は政府に回収(収公)されてしまうので、開墾意欲は高まらずこれも大きな成果は出なかったと言われています。724年についに首皇子が即位して聖武天皇となり、長屋王も左大臣に昇格しました。しかし、聖武天皇と光明子(不比等の娘)の間に出来た皇子が病死したことをきっかけにその立場は一変します。729年、不比等の子の四兄弟(南家:武智麻呂 北家:房前 式家:宇合 京家:麻呂)の策謀によって長屋王に謀反の疑いありとされ、自害に追い込まれてしまいました。これを長屋王のへんといいます。この事件の背景は光明子を皇后にすることについて長屋王と藤原氏の間で対立があったことだと考えられています。それまで天皇の正妻である皇后の地位は、皇位継承への発言力が大きく、時に天皇の権力を代行することもあったため、皇族から出す決まりがありました。不比等の娘である光明子の立后は朝廷内で反発があり、長屋王はその代表格であったと考えられています。
 政変後、藤原四子は妹の光明子を皇后とし、政権を握ります。しかし、735年頃から流行した天然痘により4人ともそろって病死してしまいました。ちなみに天然痘がこの頃流行した原因は遣唐使を媒介として日本に伝わってきたことが原因とも考えられています。

④橘諸兄政権と国家仏教の展開

 四子死後、政権を担当したのが、元皇族(葛城王)の橘諸兄でした。諸兄は母は光明子と同じ県犬養三千代で異父兄妹となります。諸兄は遣唐使から帰国した吉備真備と僧の玄昉を重用しました。それに対して、740年、式家の宇合の子である藤原広嗣が彼らの政権からの排除を要求して、太宰少弐(大宰府の次官)として左遷されていた九州で反乱を起こしました。即座に朝廷は大将軍大野東人を派遣して鎮圧しました。
 しかし、乱の最中に聖武天皇は不安に思ったのか、関東に下ると言って都を出てしまいました。乱平定後も約5年間平城京に戻らず、恭仁京(山背)・紫香楽宮(近江)・難波宮を転々としながら、仏教への傾斜を高めていきました。疫病や反乱などの社会的不安に対処するため、鎮護国家思想にもとづき国家仏教を推進していきました。741年、恭仁京国分寺建立の詔を出して、各国に国分寺・国分尼寺の建設を命じます。さらに743年には紫香楽宮大仏造立の詔を出しています。大仏は行基の力も借りて、聖武天皇の娘である孝謙天皇の時、752年に開眼供養が行われました。また、大仏造立の詔と同年に墾田永年私財法が出されています。疫病の流行による人口減少で荒廃した田畑の再開発が背景にあったと考えられています。この法律によっていわゆる初期荘園の形成が進みますが、これについては荘園をテーマとして詳しくお話しします。

⑤藤原仲麻呂政権

 聖武天皇と光明皇后の間に再び男子は生まれることはなく、聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位しました。それとともに光明皇太后を後ろ盾として勢力を伸ばしたのが、藤原仲麻呂でした。仲麻呂は大納言に昇進するとともに光明皇太后が政務に取り組むための機関である紫微中台の長官に任命されました。仲麻呂は祖父の不比等が編纂した養老律令を施行するなど主導権を握っていきました。急速に台頭した仲麻呂に対して、不満が高まり、757年、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂が大伴氏らと連携して仲麻呂を滅ぼそうと計画しましたが、密告もあり仲麻呂に先手を打たれて滅ぼされてしまいました。クーデター未遂を乗り越えた仲麻呂は絶頂期を迎えます。孝謙天皇は未婚(女性皇族は天皇に即位すると結婚しない)であったため、子どもがいないのが問題でした。仲麻呂は孝謙天皇を譲位させ、自分が推薦する淳仁天皇を即位させます。官名を唐風に改称するなど唐風化政策を推し進めて、仲麻呂自身は恵美押勝という名を与えられ、臣下として初めて太政大臣の地位に就きました。しかし、後ろ盾であった光明皇太后が亡くなると、仲麻呂と孝謙上皇の関係は悪化し、謀反の密告をきっかけに仲麻呂は討伐されてしまいました。そして、淳仁天皇も淡路島に配流されてしまい、孝謙上皇が重祚して称徳天皇として即位します。

⑥道鏡政権

 称徳天皇は病の快癒に貢献した僧の道鏡を重用します。道鏡は急速に出世し、太政大臣漸禅師、さらに法王という地位に就きました。称徳天皇のもとでは西大寺の造立や百万頭陀羅尼の製作など仏教を重んじる政治が行われました。本来中継ぎである女性天皇にも関わらず、継承させる皇子がいない称徳天皇にとって、みずからの地位の正当性を仏教に見出したのではないかとも考えれています。皇子のいなかった称徳天皇は道鏡に皇位を継がせようと考えるようになります。現在の大分県にある宇佐八幡宮から道鏡に皇位を譲れば国家は安泰だという神託(神からのお告げ)があったという報告を聞き、和気清麻呂・広虫が確認のため派遣されました。しかし、清麻呂は必ず皇族を天皇にし、道鏡を排除せよという神託を報告をし、称徳天皇を激怒させ、ひどい名前に変えられて左遷されてしまいます。清麻呂の行動の背景には貴族層の道鏡に対する反発があったと考えられており、その後道鏡が皇位に就く可能性はなくなりました。

⑦天武皇統の断絶と天智皇統の復活

称徳天皇が770年に亡くなると、天武天皇系の皇統は途絶え天智天皇系光仁天皇が即位しました。そのもとで、即位を後押しした藤原百川・藤原永手が政権を握り、道鏡は下野薬師寺の別当として左遷されてしまいました。
天武-文武-聖武と続いた草壁皇子系統の嫡系継承は途絶え、久しぶりの天智天皇系統の光仁天皇の子の桓武天皇によって平城京からの遷都が行われることになります。平城京はまさに天武皇統の都だったわけです。

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