決断主義のその先を考える(1)

以前宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読んだ。そこで言われていたことの中で最も僕の中に残ったキーワードは、「決断主義」というものだった。これは宗教や、国家、経済成長、などといった「大きな物語」が解体されて、個人個人が紡ぎ出す「小さな物語」だけが残った、という現代の状況の中で、まるでゲームをクリアしていくように、目の前の課題を、深く考えることなくどんどん判断して解決していく、という姿勢のことのようだ。

こういった考えの延長で、2010〜の現代の個人がどのような価値観を持って生きているか、それを自分は知りたいと思うので、ここで考えてみたいと思う。

「大きな物語」が崩壊した状況では、ある意味現象論的に、自分の目の前に現れることのみが問題になってきて、社会全体がどうということよりも、目の前の上司の機嫌で自分が不快にならないようにするとか、身の回りを整頓し、心地よいライフスタイルを作るとか、そういうことに価値が見出されてゆくだろう。し、実際そうなってきているように思える。つまり人間全体にとっての価値、とか国家にとって役に立つ存在になる、といった形而上的で、啓蒙主義的な価値から、自分自身の身体のもつ固有の身体性に基づいた、ローカルな価値が重要になってきたということだ。

こういった中で、個性ということが価値として言われるようになったのだと考えられるが、ここでいう個性というものは、「大きな物語」が大枠の価値基準としてあったときとは大きく異なっていて不思議ではないだろう。

そこで、「大きな物語」以後の「個性」について考えていく。大きな物語の中ではメインストリームの中で一元的に並べられた上位としての価値と、それに外れた外部、という二元的な考え方が可能であったが、それ以後ではもちろんそこまで単純には行かないわけである。そこでは多様なベクトルで測られる多様な価値がある。

とはいえ、大衆に個性が急に求められたところで、その新しいベクトルの基底自体を生み出すことができる人はそんなに多くはない。その結果、新しい方向性を見出せる人と、その周囲のそれに追随する人々とで一つの価値クラスターのようなものが生まれるだろう。そして、フォロワーよりも遠い大衆は、多くの価値クラスターから自分の身体性に合ういくつかの価値基準を選び、その基準で高い価値を持つことを目指す。こういったことは、社会にどんな価値クラスターが存在するか、生まれたかをリアルタイムで検索できるSNSで強化されるだろう。

そして、こういった過程を経て大衆がそれぞれの「個性」を形作る過程は、創作というよりも、編集に似ている。これは多様な価値基準を自分の身体性をもとにトリミングし、編集して生まれた、「コラージュとしての個性」とでも呼べるようなものだろう。こういった現代における「個性」の特性は、ハッシュタグによる表現や、自分の属性を並び立てるSNSの自己紹介欄などに如実に表れていることがわかる。

そして、このような他者の価値基準をコラージュして作られたようなアイデンティティには、必然的に内部で齟齬が生まれ、自らの心に不安定さを孕むことになるのではないだろうか。つまり、このように編集して作られた「小さな物語」だけでは不十分で、全体性や公共性を生み出す装置が必要とされると考えられるだろう。

〜つづく〜


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