「経験」と「純粋経験」

確定申告をなんとか乗りきったのだけれど、まだまだやらなければならないことが山積み・・・

アリストテレス『形而上学』をまた最初から読み直していたのだけど、「経験」という言葉が何を指しているのか、そのあたりを明確にしておく必要があるかな・・・と改めて思いました。

経験が人間に生じるのは記憶からである。

(アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳、岩波書店、22ページ)

・・・この場合の「経験」とは、過去に「これはひまわりだよ」と教えてもらっていて、それを知って(覚えて)いる上で、そのものを見て「ひまわりを見た」と判断する状況ということになるでしょうか。

アリストテレスの理論は私からみればけっこう”雑”で、因果関係の位置づけなどが非常にあいまいになっているように思えます。経験と技術(普遍)との関係についてもいろいろつっこみたくなりますが・・・それは後日。

・・・話が逸れましたが、要するに「経験」というものが何らかの結果として現れて来るという見方、つまり因果的把握を前提とした経験の定義とでも言いましょうか。

現象学においては経験が「構成」されているというふうに言ったりします。

では構成というものの前提となる因果関係とは何なのか、「経験が人間に生じるのは記憶からである」という(これも因果的認識の)根拠はどういうところにあるのか・・・このあたりアリストテレスの思考の枠組みでは明らかにはできないと思います。


西田幾多郎を読む|遊亀 

・・・を少し読ませてもらって感じたのですが、純粋経験が実在とか実在でないとか、そういう議論になってしまうのも問題かなと思います。そもそも西田自身の書き方が悪いからそう捉えられるのも当然と言われれば当然だし、西田自身が宗教的理念に縛られて見方にバイアスがかかってしまっている(つまり純粋経験=直接経験そのものの説明になっていない箇所があまりに多い)、論理性に欠ける説明になってしまっていることも否めません。

相変わらずそこに人がいるという事実より重たいものはない。

(遊亀氏)

・・・そこに人がいると判断しているとき、実際に私たちは何を経験しているのか(いないと判断するときどのような経験をしているのか)、直接経験として何が現れているのか、存在を確かめる根拠とは何によって与えられているのか、純粋経験(=直接経験)とはそこに関わってくるものなのです。

私たちには、ただ現れて来る経験しかない、そこから”離れる”ことなどできない。これは当然と言えば当然の話です。ひょっとしてこのことを指摘したのは西田が最初でしょうか?  (ただし、ここにおける「経験」とはアリストテレスの言う「経験」とは全く違うもので、ただ現れて来る様々な感覚、心像、言葉といったすべてのものです。)

その上で、「存在」とはどのように説明されるのか。純粋経験そのものが”意味を持つ”というよりも、意味とは純粋経験としていかに現れているものなのか。

純粋経験を「実在」と言ってしまうと誤解を招くだけだとは思います。ただ我々には純粋経験しかないのだ、そこから離れることなどできないのだ、という事実の強調的な表現として捉えるのであれば、それは確かにそうであると言えなくもありません。

経験論対観念論といった議論において、「知識は経験からもたらされるのかどうか」と問われたりしますが、そうではなく「知識そのものが経験としていかに現れているのか」経験論はそこから問われるものなのです。

それは一般的な「経験」認識からは説明できないものだと思います。純粋経験論というものがそこで必要になるのです。

「経験」ではなくわざわざ「”純粋”経験」(直接経験でも良いのですが)と表現するものの違い、そしてその意義をよりわかりやすく説明していく必要を感じています。


<関連する文献>

ハイデガー理論における「概念の実体化の錯誤」
~古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』に関するいくつかのコメント、およびヒューム理論との比較
http://miya.aki.gs/miya/miya_report44.pdf

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて
http://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf


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