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【エッセイ】55分の意味するもの

 「面会は10分だけ」そう言われていました。10分で何を話そう。話せるのかな、と思いつつ、早朝の便に乗りました。飛行機は異常に早く千歳空港に着陸し、あまりに早く、生まれた街の駅に着きました。病室に入ったのは、11時半。母は軽い寝息をたてながら、気持ち良さそうに寝ているようでした。声をかけ、ハンドマッサージをしました。起きる気配がないので、ちょっとつねったりもしてみました。歌の方が強いと思い、それからマッサージをしつつ歌い続けました。
 どなたも呼びにいらっしゃる気配はなく、たちまち55分が経過しました。今日は起きないのだな、という事がわかり、月末の仕事を抱えるであろう愚兄を階下に待たせているのも気になり、私は12時25分に病室を出ました。車で主(あるじ)の居ない実家へもどったのが12時半過ぎ。直後に、呼吸が止まったとの連絡が入りました。そう、私が病室を出た直後、母は虹の橋を渡って行ったのでした。

 その日は、4月30日。30日は祖父の命日で、4月という月は、祖母の亡くなった月でした。自身の亡きあと、ウチの仏様たちはどうなるのと心配していた母は、自らそんな日を選んで逝ったのか、はたまた、溺愛していた嫁を、祖父が迎えに来てくれたのでしょうか。


 翌日、実家で偶然ノートを見つけました。あまりに美しい薔薇のハードカバーのそれは、私がプレゼントしたものでした。見開きには10年前の日付。「フサ子のつぶやき」というタイトルがありました。
 『法要も済んで私の役目も終わりました。いろいろありがとう。ありがとうね。いい子供に恵まれて感謝しています。私は幸せでした。貴方達にとっては、良い親ではなかったでしょう。不満だらけの親だったと思いますが。やさしい友人にも恵まれ、幸せな一生でした。
 私の最後の始末をよろしくお願いします。いつも言っているように。どうか、どうか、よろしくお願いします』
 祖父と父の法要を無事に終えた、その日から書かれた、約10年のつぶやきでした。


 母との面会の為だけに帰省した私は、そのまま、お通夜と告別式を済ませる事となりました。葬儀場の窓から、北の遅い桜が満開でした。告別式の翌日は、私の誕生日。何も知らない友人達から、メールがいくつも届きました。
 「わぁ、お誕生日おめでとうございます。なんて素晴らしい日なんでしょう。敬子さんをこの世界に産み出してくださったお母様に感謝です」本当に…。

 思えば最後の55分は何だったのか。なぜ55分で、私は病室を出たのでしょうか。「ゴーゴー」また一歩前へという、母の応援だったのか。「ゴーアウト」もう病室を出てという、母の言葉だったのでしょうか。


 いえ、母が大ファンだった、松井秀喜選手の、背番号だったような気もしています。

●随筆同人誌【蕗】387号掲載。令和3年7月1日発行。

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