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小説「ほんの束の間のこと」  episode.5 最終章 神戸の震災の傍らで

 散髪屋の店主であるすっかり頭の薄くなったじいさんが、私が居眠りしていたリクライニング式の椅子を持ち上げたので私は姿勢をただし、鏡の寝ぼけ眼の私と目と目があった時に私に聞いた。「あの地震は大きかったなぁ、あんたどこにいたんかな、あの時間に」そんな風に聞くことは初めてであった。多分朝のニュースでそのことが頭にあったのだろう。
 私もそのニュースで話していたキャスターの顔が浮かんだと同時に当時を思い出した。私はちょうど大阪のどちらかと言えば兵庫寄りの場所にいて、当時まさしく大きな揺れの真っ只中にいたのだった。

 それはちょうど阪神淡路大震災の発生した神戸の傍らで起きた。
 兵庫県を南北に流れる武庫川は、いくつかの国道、鉄道に架かる橋梁を渡している。国道2号線や43号線、阪神高速湾岸線や東海道本線にも。鉄橋には煉瓦造りの伝統的で厳かな橋脚が橋梁を戴き無数の電車を走らせて来た。
 通称イナイチ(国道171号線)は、伊丹市の昆陽こや池の南側を北東から南西方向へ斜めに横切り、昆陽西で一旦道は南に真っすぐ伸び、西へ大きなカーブを描くようにして甲武こうぶ橋にさしかかる。
 その甲武橋西詰で死亡事故が発生した。震災があった年(平成七年)のまだ冬の時期のことで、あれから足掛け二十六年は経つ。当時赤ん坊であれば今は二十六歳になるはずだ。赤ん坊を抱いていた母親は即死だった。ほんの束の間、この世に生を受けて、愛情と体温の温もり、母性を一身に集めて育っていた時期に事故は起こった。それはあっけない程一瞬の出来事だった。その出来事はひとつの幸せを奪い去った。最愛の母と死別するという現実自体があまりに幼くて実感できるはずもなかっただろうし、不慮の事故にしてはあまりに悲惨な事故だった。
 もし大金を失ったというような事なら、いつかは取り戻せばいい。それとても直ぐには叶わないかも知れないが、生命を失ったら取り返しがつかない。その赤ん坊は一回転して復元した軽四乗用車の車体の下で見つかった。体が柔らかかったからか、母親の一瞬の保護のせいか奇跡的に無事だった。
 母親は車の助手席で赤ん坊を抱いており、車は信号機のある交差点(甲武橋西詰)で西方向から南に右折しようとしているところだった。
 東西各二車線で、交差点には右折レーンが設けられており、東行きは赤信号になれば直進と左折可の二つの矢印信号が点灯し、その後右折の矢印信号が約八秒、続いて黄色が二秒ほど点灯する。つまりこの橋を西から南へ右折するには約十秒足らずの間に通過しなければならない。何台も通過待ちをすることもあるから限りなくその時間は短くなる。
 運転していたのは母親とどういう関係の女性か、は私は知らない。車外に放り出されて大怪我をしたものの一命をとりとめている。いわゆる右直(右折と直進)の事故で、事故の形態では一番多いと言われる。その時東方向から直進して来た車はセダンタイプの乗用車で、運転していた男は車が大破して自走不能になった後は、車を放置して武庫川右岸を南へ走って逃げてしまった。
 甲武橋の南側は国道二号線方向へ通じる道路が川沿いに両岸南北に走っていて、川と道路の間には結構広い河川敷と土手が続いている。おそらく男は土手の石段を降りるかして河川敷に出て、そのまま南へ走って逃げたのだろう。事故で怪我をしていたかも知れない。警察が見分した結果車内には、注射器やポンプ、覚せい剤を使用するための道具一式と覚せい剤粉末などが大量に発見された。偽造されたクレジットカードや運転免許証なども多数見つかった。  
 逃げた男は、放置された車内の状況から覚せい剤の密売人と思われた。管轄の西宮警察署では直ちに死亡ひき逃げ事件として緊急配備を敷いて対応した。しかし犯人は捕まらなかった。
 ずっと後になって人々の頭の片隅から事故そのものの記憶が消えかかった頃に、男は別件の覚せい剤所持の被疑者として逮捕されている。
 なぜこのような事故が起きたのか。いくつかの原因、要素が考えられるだろう。
 当時自動車運転死傷行為等処罰法という法律はなかったから、この死亡ひき逃げの事件は、業務上過失致死と道路交通法違反(救護義務違反)ということになるが、その被疑者の男は、何時かは警察に捕まることを自覚していたはずだし、覚せい剤を売っては儲け、盗んだ車を乗り回して無茶な自堕落な生活をしても生き延びようと考えていたからだ。この種の犯罪で多いのは、クレジットカードの偽造や自動車盗、車上狙いなどの窃盗、覚せい剤の使用や所持を「ワンセット」(抱き合わせ)にした犯罪である。捕まるまで決してめないし、徹底して逃げ延びようとする。そこが商店街であろうが、高速道路であろうが。
 追いかけられれば人をいてでもとことん逃げる。 
 イナイチを男は大阪から神戸方向へ盗んだ乗用車を運転していた。覚せい剤を震災のあった神戸までわざわざ運び密売するために。当時兵庫の警察については、全国から都道府県の警察が応援に駆け付け震災対応の警備活動を行っている真っ最中であり、こういった覚せい剤関係の犯罪を行う者にとって、極端に言えば網の目をくぐれる絶好の機会でもあったのだ。
 この国道171号線は、国道2号線などと同じくいずれも速度自動取締装置と、ナンバー自動読取装置(通称Nヒット)が設置されている。男が運転していたナンバーが盗難車両であることをカメラが読み込むと、兵庫県警察本部通信指令室が、ヒットした場所、ナンバーと方向を手配する仕組みになっている。それを傍受した自ら隊(阪神自動車警ら隊の略称)のパトカーは、西方向に走行の当該車両を視認し、追跡することを本部に報告、緊急執行して追跡を開始した。
 追跡行為そのものは適法であるし、逃走車両を補足に努める必要上妥当でもある。そのころイナイチは混雑しており、次第に前方がつかえて逃走していた男はイラついていたはずだ。徐々に速度が落ちていた。
 通常公道を走行する車両は、後方から盗難車両が近づいてくることなど予想できるはずはない。ただその時逃走中の車の直近の車が後方からパトカーがサイレンを鳴らしながら近づいてくるのが見えたために道を空けると、連鎖反応的に一台一台徐々に道を開ける形で隙間が出来、渋滞を緩和する働きをしたのだろう。逃走していた車も苛立つ渋滞から解放されたかのように速度を上げ始めた。
 ちょうどF1サーキットで塞がれた状態から脱して先頭に躍り出るマシンのように勢いを得て疾駆しっくして行き、その後は時速100キロ程度で突き進んで行った。そしてそのあとは事故発生の通りである。
 世の中で起きている事件や事故のうち幾つかは、真相が解らないままで時が過ぎていき、やがて数十年が経過する。森の樹木の葉が朽ちていっては堆積たいせきして、日照りや豪雨や積雪を経験しては、人々の脳裏からも完全に忘れ去られてしまうように。何かのきっかけでそれがふと人々の忘れられた記憶を掻き立て現実のもとに蘇らせることもある。
 私は当時兵庫県に行政の応援で駆け付けていたのであるが、偶然ではあるが甲武橋を当時震災発生のため点検中であった道路設備管理者と接触する機会を得ていた。
 震災のため道路、高速道路のみならず河川に架かる橋梁も少なからず被害を受けていた。
 復旧の見通しが困難な橋もあったが、生活道路である限り、直ちに復旧する手立てをするのが行政の役目でもある。橋桁が崩落した高速道路などがあった中で、甲武橋は震度七の地震にもしっかり持ち堪えていた。
 昔西国街道と呼ばれた明治の時代に、現在の西宮市である甲東村と尼崎市である武庫村に架けられた橋という意味で甲武橋と命名された。最初は車も離合できないくらいの狭い橋であったらしい。交通量の多さから後に片側二車線ずつの四車線道路になったので、正確に言えば新甲武橋ということになる。
 世の中は陥穽かんせいに満ちているし、何時突拍子もないことが起きても不思議ではない。 
 しかしもし、その車がそこを通ることを人々が予見できたのであれば、渋滞を緩和しようとはせずに、或いは誰しもその事故の起きる場所を迂回して、事故を回避するに違いない。たった十秒、いやもっと短い時間に事故に遭ったのだから。しかし大抵の場合事故を予測することは不可能であるし、何かちょっとした「虫の知らせ」なるものが人にあることを思いとどまらせるようなことがない限り、定められた行動を取るのが通常である。なぜならこの果てしない宇宙の中の地球を含む惑星の中で、ちっぽけな人間の行動なんて取るに足りない程のものだからである。 
 そのころ伊丹警察の管轄である伊丹市に、国松警察庁長官が視察に訪れていた。あれだけの規模を伴った震災の警備であるから、全国から駆け付けた警察のトップである長官が視察されてもおかしくはない。しかし単に激励のためのいわゆる特例巡視ではなかった。
 伊丹市の阪急駅前交番は崩れたままの状態でしばらく放置されていた。当時勤務していた二名の警察官のうち一名は自衛隊員によって救出された。その交番を中心にして警察は交代で昼夜四六時中警戒していたのであるが、そこには殉職された警察官の身体とけん銃が掘り起こしも出来ずに残されていたからだった。交番の事務机であるスティール製のデスクにうまく潜り込めれば建物の倒壊からでも一命は取り止めていたかも知れない。しかし交通事故と同じく実際には人間は咄嗟の時に通常時のような行動は取れないものだ。かえって人は悲劇的な動作をとることもある。
 もっとも神戸の中心地に位置する兵庫警察署はほとんど跡形もなく崩れ去っていた。ということは、震度七以上の地震が来れば誰も適切な対応など取れないことが実証されたということでもある。その国松長官にしても、この先自分の身にどのような過酷な運命が待ち受けているか知る由もなかった。  
 震災後の復旧活動に官民揃って奔走している三月には、オーム真理教による地下鉄サリン事件が発生し、未曽有の被害が起きている。その直後に今度は警察のトップが狙われるという前代未聞の事件が発生したのである。
 私はあれから二十三年が経った平成最後の夏、橋のたもとに立ち、あらためてめまぐるしく動いた日本の社会情勢などを思い返していた。 
 異常な夏は日本列島で息づく人々を苦しめ、山から沸き立つ積乱雲とじりじりと照りつける太陽が人々の様々な活動を抑制させてはいたが、一方で人知れず騙された者にも騙した者にも、等しくこの短い夏を生きる術を与えられている蝉と同じように、それぞれに生の営みを許す天の采配というものを感じてしまった。
 交差点の角には交番があり、その近くに紫色の花を二輪手向け、心で合掌した。性別も名も知らない当時二十三歳の若者のことなどを想像しながら、私はゆっくりとその場を後にした。

 もうあれから令和に時代は移り、ウイルスによる厄介な感染症が世界を覆ってしまっている。散髪屋の界隈には人の目論見が外れ、シャッターのある昔ながらの商店街の一角にテナントを利用してはじめた飲食店もあるが、以前のように人が立ち寄って来ず経営が難しくなり仕方なく閉鎖するという店も出はじめた。 
 私自身も一時は職場を解雇されて別の仕事をはじめ二年以上が経過している。
 頭が刈り上げをしたことで幾分かすっきりした私は、いつものように黒いジェットヘルを被ると顎紐を締め、サングラスをかけ、革の手袋を着けてからヤマハのSRにまたがる。サイドスタンドを掛けたまま右足でゆっくりキックすると、真新しい単気筒のエンジンが、けたたましい音を立てた。

※おことわり   

事件発生の経過時間を、それぞれの私の立ち位置に合わせて記しているので、もしかしたら(事件は、あくまで平成7年の震災の年です)混乱を生じているかも知れません。申し訳ありません。また、交通事故は事故であり事件ではないのですが、やはり「業務上致死」は事件であり、そのような扱いをしておりますことをご了承願います。

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