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【著者特別寄稿】後期近代の二世たち――『「死にたい」とつぶやく』補論(中森弘樹)

2017年に発覚し、その社会的影響力からTwitterの利用規約変更にもつながった座間9人殺害事件。本事件に関する裁判は被告人の死刑確定をもって終了し、Twitterの利用規約が変わった後も、SNS に自殺願望を書き込むことを発端とした事件は発生し続けています。なぜ、家族や友人などの近しい人物に相談するのではなく、SNSで「死にたい」とつぶやくのか? 何を求めて書き込むのか? 
当社刊『「死にたい」とつぶやく』は、日本社会に潜む希死念慮の問題を社会学の視点から読み解いていきます。

今回は、刊行から半年が経過して様々な反響を受けた中で、著者の中森先生がさらに考察を進めた補論をご紹介します。すでに本書を読まれた方はもちろん、「まだ読んでいないけれども本書が気になっている」という方も、ぜひご一読ください。

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 『「死にたい」とつぶやく――座間9人殺害事件と親密圏の社会学』を上梓してから、半年が経過した。その間に、本書が広く読者の手にわたり、さまざまな反響をいただけたことは、著者としては幸運というより他はない。

 特に嬉しい誤算だったのは、本書が心理や臨床の界隈でも広く読まれていることだ。これは主に、ジュンク堂で東畑開人先生とのトークイベントを開催していただいたり、心理系YouTubeチャンネル「ミヤガワRADIO」にて末木新先生との対談を催していいただいたり、などの機会に恵まれたからだろう。「死にたい」をめぐるコミュニケーションが可能になる条件を探る本書の視点が、希死念慮という心の現象を新しい角度から捉える契機になれば幸いである。

 一方で、副題のとおり、筆者は本書をあくまでも社会学の本のつもりで書いている。本書が社会学だということは、たんに座間事件や「死にたい」をめぐる問題を記述するのにとどまらず、その背景となっている/そこから導かれる社会の特徴を描く内容となっているべきだろう。

 実際に、第1章では、いわゆる「大きな物語」が衰退して、価値が多元化した現代を生きる人々の、「成れの果て」のあり方の一つとして、座間9人殺害事件の犯人である白石死刑囚を位置付けている。その分析の成否や妥当性はさておき、少なくとも筆者がどのように現代社会を捉えているのかは、第1章をお読みくださった方には伝わっているのではないかと思う。

 同様に、続く第2章、第3章、そして終章においても、その延長線上にある社会像をベースに、「死にたい」という言動の舞台となっているTwitterやシェアハウスについて記述している……はず(つもり?)だったのだが、そのベースの部分の話が不足していて、第2章以降の意図が伝わりづらくなっていることに気付いた。終章の結論に対して、筆者が想定していた以上に賛否が分かれているのは、そのせいもあるのではないかと思う。本の著者として、何かしらのガイドになるようなものを、追加したくなった。

 刊行後の本に対して、版を変えずに何かしらの情報をウェブ上に追記することは、学術出版の伝統に反する行いかもしれない。けれども、デジタルデバイスの購入後にソフトウェアをファームアップできたり、ゲームの購入後に無料で追加コンテンツをダウンロードしたりできるのが当たり前になった昨今である。本書に関しても、何らかのコストを払って入手した読者に、少しでも多くの価値を提供できるように、後から何かを付け足してゆく、というスタンスがあってもよいはずだ(よって、読書体験にあたって、余計な補足情報が不要だという場合、以下のファームウェアは適用しないという選択もありうる)。

 言うまでもなく、購入後の無料コンテンツの追加は、すでにユーザーとなっている者へのサービスの他に、さらなる新規ユーザーの拡大すなわち販促の意図も込められている。これから書く内容に、少しでもピンと来るものがある方は、ぜひ本書を手に取っていただきたい。きたる社会での、親密圏、特に家族への向き合い方へのヒントが書かれている、かもしれない。

  と、大見得を切ってはみたものの、筆者が前提としている社会像は先に述べたとおりで、「「大きな物語」が衰退して、価値が多元化した現代」といったごく一般的なものだ。より正確には、ここ30~40年の日本で「一般化した」と言うべきだろう。大澤真幸や宮台真司らによって、「大きな物語」の代替物としての虚構へのコミットが指摘された1990年代から30年、土井隆義がギデンズの後期近代社会論をベースに若者の友人関係への依存(「優しい関係」)を指摘した2000年代からも20年が経過したのが、今である。

 人びとは、(日本でいえば高度経済成長期を支えた)近代的価値観にかならずしも依ることなく、さまざまな物語にコミットするようになった。この流れは、多種多様なアイデンティティを持った「当事者」たちが自らの権利や状況を積極的に表明したり、働き方や結婚・子育てのあり方がジェンダー規範よりも個人の価値観に委ねられるようになったりしている現状を踏まえると、今でも続いていると言えそうだ。

 ただし、30年も経てば、変わるものもある。それは、世代である。先ほどの時代分析を前提とすれば、いま(2020年代)を生きる若者たちの多くは、すでに「価値が多元化した現代(後期近代)」を生きてきた先代から産まれている。つまり、多元化した価値の一つを選び取ったり、あるいは不可避に選ばされたりといったかたちで、何らかの(相対的に小さな)物語を生きてきた先代だ。

 だとすれば、そこから産まれた次代(現在)の若者たちの人生は、彼/彼女の親たちが生きてきた多様な物語の一つ[注1]を舞台に展開されることになる。しかもそれは、近代の安定した土台ではなく、現代のグラグラした(親の)ライフコースのうえに築かれた舞台だ。この舞台の上で、自由に何かを演じなければならないとしたら、自分にたまたま与えられた舞台が、自分の演じたいことと相性が良いかどうかを、真っ先に意識せざるをえない。クラシックバレエを踊りたいなら、たまたま用意された舞台が壊れかけであればステップもままならないだろうが、怪談を朗読したいなら、舞台がボロボロなほうが案外、都合が良かったりすることもあるかもしれない。

 つまり、後期近代を生きる者たちから産まれた「二世」たちは、何らかの物語や価値にコミットする際に、同時に、自らの「生まれ」とも向き合わざるをえないのだ。もちろん、それぞれが向き合っている「生まれ」は、単純な良し悪しや貧富によっては測れない、固有のものだ。だから、彼/彼女らを、「現代の若者」と一括りにすることはできない。

 とはいえ、多くの者が向き合うこととなる「生まれ」の最たるものは、自分の生まれた家族だろう。「私」が、「私」にはどうにもならない親や家族(の不在も含む)の物語と葛藤や矛盾を起こすことなく、「私」の物語にコミットできるのだとしたら、それは幸運にすぎない――現代において、人びとの生きづらさを語る際に、貧困や機能不全家族といった概念が再-問題化していたり、「ヤングケアラー」や「半出生主義」といった専門用語が人口に膾炙したり、「毒親」「親ガチャ」「実家が太い/細い」のようなスラングが好んで用いられたりするのも、後期近代の世代間関係をめぐる葛藤の現れではないだろうか。あるいは、長きにわたり国政を担った元首相を銃撃・殺害した容疑者が、犯行の背景としてカルト二世である自身の人生の苦しみを語ったことで、彼の減刑を願う多くの署名が集まるまでにいたったという現象も、今回のマクロな話と無関係ではないかもしれない。ある意味でみな何かの「二世たち」である私たちにとって、カルト二世問題は、親子間や家族間での物語の矛盾からくる困難の象徴にも見えるだろうからだ。

 もちろん、子がどんな物語にコミットするかを、親はコントロールしきることはできないので、親もまた、自らの物語と、子の物語との関係性に向き合うことになる。その面倒さを考えれば、子を産まないという選択もまったく自然なものに見えてきてしまう。

 以上が、『「死にたい」とつぶやく』の後半を書きながら、意識していた理論的な前提である。ここで、誤解してもらいたくないのは、死にたくなる原因として、親や家族との関係を論じているわけではない、ということだ。もちろん、そうしたケースも世の中には多々あるとは思うが、あくまでも本書では、「死にたい」をめぐるコミュニケーションの不全を、親密圏において互いの――たとえば親と子の――物語が一致しない際に生じる困難の代表例として扱っている(つもりである)。

 本書で最終的に、たとえ〈親密性〉と〈共同性〉を欠いていたとしても続けざるをえない親密圏の内部、が舞台となるのも、それゆえだ。この舞台は、典型的には家族関係や親子関係を例として考えてもらっても差し支えない。ここで、本書ではずっと家族を離れたところで生ずるコミュニケーションの可能性を考えてきたはずなのに、結局最後は家族内の二者関係での処方箋を論じるのか、という疑問を持たれるかもしれない。けれども、これから2世代目、3世代目へと続いてゆく後期近代社会では、もっとも近い他者への浅い理解ではなく、理解の深い断念から始まるコミュニケーションを模索しなければならない、と筆者は考えてしまうがゆえに、本書ではあのようなヽヽヽヽヽ結論となっている。

 そのあたりの是非についても、引き続き、読者の忌憚のない意見を仰いでゆきたい次第である。


[注1]そのなかには、形式的に or 実質的に親にならなかった物語すら含まれるだろう。

↓本書第1章第1節の試し読みは、こちらから

↓ 書籍の詳細はこちらから

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