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連載第6回:『結婚の哲学史』第1章第4節 結婚の形而上学の第一公理――契約(contract)と約束(pact)

 結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――

九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。今回は、第5回の続きとして、契約主義的な結婚論の歴史から遡ります。

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1.“挿入契約”としての結婚――カントの結婚論

「契約」化していく結婚

 なぜ「契約」が問題になるのか。現代の結婚がますます「契約」化しつつあるように思われるからだ。たとえば、フランスにはPACSのような同居・同棲を基盤とする「自由な結びつきユニオン・リーブル」の制度があり、結婚とは異なる選択肢を提供している面もあるが、結婚にせよPACSにせよ、どちらも「契約」を基盤としていることには変わりがなく、この二つを対立させて考えるのは、誤った問いの立て方であるように思われる。真の形而上学的な問題はむしろ「契約」という概念そのものであって、そのことを理解するためには、まず契約主義的な結婚論の歴史をさかのぼるのが手っ取り早い。
結婚について思想家たちがいままで語ってきたところを読み直してみると、「契約主義」とも呼ぶべき側面が次第に強まってきているということが分かる。〈結婚の西洋哲学史〉のさまざまなマイルストーンを考えたとき、近代において最初にエポック・メイキングな考えを提出したのは、ジョン・ロックあたりではないかと個人的には考えている。ロックの『統治二論』というのは政治哲学の古典として知られているが、〈結婚の形而上学〉を考えるうえでも重要な著作である。ただ紙幅の関係上、さしあたりこのロックの契約主義的な結婚観から〈家族〉の要素を削ぎ落とし、〈性〉にフォーカスしたのが、カントであるというにとどめておく。
 さて、そのカントであるが、彼の結婚の定義は非常に悪名高いものだ。カントによれば、「結婚とは、性を異にする二人の人格の、性的特性を生涯にわたって相互占有するためになす結合」である。つまり、お互いの性器を独占使用する権利を認める契約を交わすことが結婚である、という身も蓋もない定義をしている。カントは同性愛を認めていないので、この定義は、極言すれば、結婚を“挿入契約”と考えていると言える。
 カントと言えば、高校の教科書などには、「理性」「人格の尊厳」「定言命法」などといった概念とともに登場する「人格主義の哲学者」であるはずなのに、どうしたことだろうか。カントは、執拗に理性にこだわり続けた哲学者であるだけに、理性の限界、理性が大した意味を持たなくなる瞬間をよく分かっていた。性交において人は他者に身を委ね(理性の自律を放棄し)、身体の諸部分を自由に使用させることで自らを物件に(つまりモノ化)するが、これは己の人格の尊厳という観点からすると、人間性の権利に反することだ。セックスにおいては、理性や人格の尊厳、「他者の人格を自らの人格のように敬え」といった通常の思考のたがが外れてしまう。だからこそ性交は、彼にとって非常にデリケートな問題になる。カントは、この難問をクリアするのは次の条件のもとでのみ可能であると言う。

 それはすなわち、一方の人格が他方の人格によってあたかも物件のように取得されながら、この他方を反対にまたもう一方が取得する、ということである。というのも、このようにして、取得される方は自分自身を取り戻し、自分を再び人格とするからである。人間の身体の一部を取得することは、――人格が絶対的な統一体である以上――とりもなおさず人格全体を取得することである。したがって、一方の性が他方の性によって享受されるために身を委ねること、受け取ることは、婚姻という条件のもとで許されるだけでなく、もっぱらこの条件のもとでのみ可能なのである。

カント『人倫の形而上学』、第一部「法論の形而上学的基礎論」第24節

人が性交において人格をモノ化することが許容されうるのは、そのモノ化が相互的に承認された場合のみ、つまり婚姻の場合のみだ、というわけである。だからこそ、「結婚」が必要になる。カントは性交に箍をはめ直す方途を「結婚」に求めたのだ(この点では、カントはパウロを継承している)。

2.契約の止揚――ヘーゲルの結婚論

 さて、契約で結婚を考えるカントに対して、ドイツ観念論を完成したとも言われるヘーゲルは激しく対立する。「契約の概念に婚姻は包摂されえない。これを包摂せしめるなどは――言うも恥ずべきことと言わざるをえないが――カントによって(『法論の形而上学的基礎』第24‐27節)なされたところであった」(『法の哲学』第75節)。理由はこうだ。

 結婚は、独立した人格性の契約から出発しはするが、それはこの契約を止揚せんがためのものである

『法哲学』第163節注記

本章の冒頭でも述べたように、ヘーゲル弁証法の有名なAufhebungという概念は、「止揚」とか「揚棄」と訳される。「止めつつ揚げる」とか「揚げつつ棄てる」という意味で、つまり廃棄・否定と保存し高めるという二つの意味を同時に備えているのだ。では、「契約から出発するが、契約を止揚する」とはどういうことか。カントの契約主義的な結婚観に対するヘーゲルの批判の要点はこうだ。契約というのは必ず二人の人格の間で行われる。しかるに、結婚というのはその二人が一つの人格になろうとする試みである以上、契約ではない。もう少し厳密に言えば、結婚は最初は契約から出発するが、最終的に契約であると同時に契約でないような、契約以上のものになる、ということである。
 「契約ではない」「契約以上のもの」というと、「結婚というのは心と心の結びつきだ」ということになりそうだが、ヘーゲル弁証法の法哲学的観点から言えば、そうはならない。単なる心と心の主観的な結びつきだけでは不十分なので、人間が共同体をうまく作っていくためには、そのような主観性・主体性の次元を乗り越えて、客観性・客体性を持たなければいけない。では、その客観性をもつためにはどうしたらいいか。『法哲学』にはこうある。

 結婚は、先立つ儀式によって、その儀式が精神の中でも最も精神的なものである記号、言語による実体的な契機の遂行であるかぎりで、共同体的な関係として確立される。

164節

二人が互いへの想いだけで結ばれれば、それで「結婚」になるわけではない。そうではなく、社会や共同体に承認され、周りの人たちに認めてもらって初めて、結婚ということになる。そのとき、人間の精神的な部分が客観化されるために、必ず言語を介さなければいけないのだ、とヘーゲルは言う。この意味で、そして厳密にこの意味においてのみヘーゲルはやはり契約主義の頂点にいる。これは先にも引用したデリダが『弔鐘』という著作で示唆している点である。

 他者たちや言語を介さないものが結婚と呼ばれるはずはない。純粋に二者的な関係には(もしそのようなものが存在するとしての話だが)、結婚は、それが秘密のものであれ、己の居場所を見つけられないだろう。だが、一夫一婦制的な(契約なき)結婚、ここで唯一認められうる結婚は、二者的な関係に限定されねばならない。したがって結婚は、いずれにしても不可能である。あるいは、結婚が可能となるのは事後的にのみであって、決してある行為としてではない。

Derrida 1974 : 219

ヘーゲル的な結婚は、純粋な二者関係では成立せず、必ず媒介を必要とする。にもかかわらず、結婚が契約でなく、二つの人格が一つになろうとする運動である以上、結婚は媒介を排除しようとするものでもある。単純化を承知で分かりやすく言い換えれば、ヘーゲルは「最終的には契約は要らない」と言っているように見えるけれども、実際には「契約ではない、契約的な何かは必要」と言っているということだ。
 結婚前に契約書を交わすなど、「結婚的なるものを支える究極の根拠は何か」という問いに対して、「契約」による制約を厳重に課すことでもって答えようとする現代の趨勢は「カント的」ということができるだろう。これに対して、ヘーゲルは契約の見かけ以上の複雑な構造を示唆し、デリダはいわばその複雑さを飽和させ、「結婚は不可能だ」と言いきる。しかし、果たしてそれで十分なのだろうか。
 私はデリダからさらに先に進んで、「契約」と「約束」を区別してみるとどうなるのかを考えてみたい。ここで「契約」とは、法や命令といった上からの強制とは異なり、当事者同士の自由な合意を通じて、双方を未来に向けて拘束するものを指す。契約は必然的に個人主義的なものであり、「個人」という概念を前提している。しかし、〈結婚〉が含むとされる〈愛〉にしても〈性〉にしても〈家族〉にしても、あるいはそれらを欠いた、共に生きる〈絆〉にしても、本当に「個人」が「主体的」に行なうことによってすべて尽くされるものなのだろうか。「約束」は個人同士がするものでありながら、個人を超えた、その意味で「超個人主義的」な側面をもっている(森村 一九八九参照)。重田園江の言葉を借りれば、「約束」とは「一種の引力」である。

 約束を交わすとは、当事者双方がそれぞれ異なる存在のまま、互いに惹きつけ合うことなのだ。それは一種の引力だ。ただし、相手と完全に一体になるわけではない。ある距離を保ったままで、人と人とが互いに引き合う。そのことによって、約束は二人を隔てると同時に引き寄せ続ける時間と空間を生み出す。だから引力というより磁力に近いかもしれない。約束の力は磁力のように、離れたところにいる二者が引き合い続けるように作用するのだ。こうして約束を通じて、人は異なるもののまま、多様なままで関係し続けることができる。

重田 二〇一三、八三頁

契約が拘束の交換だとすれば、約束は引力の贈与である。結婚から契約(contract)的なものを排除したとしても、やはり最後に約束(pact)的なものは残るのではないか――これはいずれ論証すべき仮説である。「契約」が果てしなく姿を消していき、止揚ないし揚棄された果てに残るのが「約束」ではないかと問うとき、私は「約束」をむしろ、個人同士が主体的に交わすものを超えて、その果てに現れる何かとして思い描いている。その当否はともかく、さしあたり結婚において私たちは契約や約束から簡単に逃れられないという点は強調しておきたい。

3.ヘーゲル的所有の脱構築

 では、いよいよヘーゲルの結婚論の核心に迫っていくことにしよう。先に強調したとおり、ヘーゲルにおいて「権利」とは「~への権利」のことであり、したがって「~を所有する権利」のことである。「物件に関する権利を与えることができるのは人格性だけである。だから対人的な権利は本質的に対物権的な権利である。一般的な意味での物件とは〈自由にとって外的なもの〉のことであり、それには私の身体や生命も含まれる」(40節注解)。したがって人格性とは、身体・生命をもたない抽象的な主体だということになる。これは明らかにカント批判である。
 カントは『人倫の形而上学』において、権利を三つに分類した。人格ヒトへの権利、物件モノへの権利、そして人格的物件(ヒトでありながらモノの扱いを受けるもの)への権利だ。前二者の区別はいいだろう。友人がいくら貸した金を返さないからといって、その人に求めているのはあくまでも金(モノ)への権利であって、断じて友人(の精神・身体)への権利ではない。「貸した金を返さないなら体で返せ、奴隷のように言うことを聞け」という理屈を防ぐうえで、カントの区別は有効である。
 だが、問題は三つ目の人格的物件である。これは結婚や家族関係に用いられる権利だ。ヘーゲルが「カントにあってはおまけに家族的諸関係とは物的な仕方で人格的な諸権利である」(40節)と言っているのはこのことである。ヘーゲルはここに「人を所有する」論理を鋭く嗅ぎつける。加藤尚武の指摘する通り、ヘーゲルによるカント権利分類の批判は、「マルクス主義の問題のすべてが始まる震源地」であり、「疎外や搾取という問題の根源」である。したがってヘーゲルは人格的物件という概念を拒絶する。
 ここまではよい。すべては明快である。権利とは、人格が物件に対して有する、所有の権利である。人格とは所有の主体であり、所有の対象にならないものである。物件とは所有の客体であり、所有の主体にはならないものである。主体と対象の二元論、譲渡不可能な人格と譲渡可能な物件の二元論が完成される…。
 しかし、話がややこしくなるのはここからだ。私にとって私は心身分離体であり、他者にとって私は心身結合体である。私はいつでも自分が自分の思う通りになるわけでないことを知っているが、法律はそんな言い訳を許さない。では、二元論をどうやって一元化するのか。この二つの対立する見方を媒介するのが、労働であり所有である。私たちは労働し所有することで身体を精神化し、外を内化する。「直接的な現存在である限りで、身体は精神には相応していない。身体が精神の意志ある器官となり、精神化された手段となるためには、身体はまず精神によって占有されなくてはならない。しかし他者にとっては私は本質的に私の直接的に持つ身体において自由な者である」(48節)。
 『法の哲学』の次の一節は、明確に「本性上譲渡できないもの」など存在しないとヘーゲルが述べている点で、きわめて重要な一節である。

 知識・学問・才能などはもちろん自由な精神に固有のもの、その精神の内的なものであって、外的なものではない。しかし、精神はそれらのものを外化(Äußerung)することもできる。それらはモノという規定に置かれ、譲渡(veräußern)することもできる。それらは最初から直接的なものなのではない。自分の内的なものを直接性と外面性に落とし込む、精神の媒介を経てはじめてそうなるのである。

43節

これまでに概観してきたヘーゲル結婚論の核心部分にはいつも「人格」があったことを思い出そう。「婚姻の客観的出発点は、両人格の自由な同意、自分たちの自然的で個別的な人格性を一体性において放棄して一人格をなそうとすることの同意」、あるいは、「婚姻はその本質的基礎に関して契約関係ではない。婚姻は、個別性において独立している人格性という契約の立場から出発しながら、その結果、この立場を止揚するものである」(163節)。
 だとすれば、人格と物件の峻別、契約の止揚に基づくヘーゲルの結婚論は再検討を余儀なくされるはずだ。

 露骨に言えば、「本性上譲渡できないもの」などは存在しない。たとえ内面的なものでも、「精神の媒介によって」外面化してしまえば、譲渡できる。

加藤、97頁

 人は、自分という存在の統一を自分で壊して、分裂することで他者と触れ合う。私は私の身体を「私であるもの」から「私のもの」に、さらには「ただのモノ」にすることで他者と出会う。

加藤 1993:103

カントの人格的物件の概念を批判するヘーゲルにとって、人格と物件の峻別は『法哲学』および結婚論の要と言うべき区別である。だが、その区別が実際に『法哲学』および結婚論のなかで機能するためには、精神的・内面的なもの、したがって人格は外化(Äußerung)され、モノという規定に置かれ、譲渡(veräußern)されることもできるのでなければならない。ヘーゲルは人格のモノ化に反対することから出発したはずだが、どうしてもモノ化を再導入せざるをえない。すべてがモノ化され、契約されうる世界で、愛・性・家族はどうなるのか。ヘーゲルの近代的結婚観はたしかにカントを乗り越えようとしている。しかし、完全に乗り越えられているわけでもない。私たちは序論で、現代において結婚を考え直すにあたって、愛・性・家族の関係を考え直さざるを得ず、最終的には所有・契約・個人という概念を再検討せざるを得なくなると述べた。私たちが立ち止まっているのはまさにこの地点なのではないか。

4.カントの先駆性――坂爪真吾の「スキンシップもセックス」

こうしてカントからヘーゲルへという流れを見てきたわけだが、おそらく現代の多くの人びとがあまりに即物的すぎるカントの定義に顔をしかめることだろう。もしかすると本書のこれまでの記述から、「カントの結婚論には何の現代的意義もない」と結論される方もおられるかもしれない。
 しかし私は次の二つの点で、カントは先駆的であると言えるように思う。第一に、子供がおらず、「家族」が形成されなくとも、結婚をする意義はあるという点で。カント的結婚は、未だ性からは切り離されていないが、少なくとも家族からは切り離されている。そのことを肯定的に捉える可能性はあるだろう。第二に、これはイタリアの現代思想家マリオ・ペルニオーラが言っていることだが、カント的な道徳には二種類の展開の余地があるという意味で。人格の内在性と精神性に向かう道徳が有名だが、それと拮抗する、性の外在性とモノ性に向かう(非社交的社交性ならぬ)不道徳的道徳に注目することもできるということだ(ペルニオーラ 2012:65)。
 ペルニオーラは、この第二のカント的道徳が密かに通じている現代的なセクシュアリティのあり方として、「性的刺激を欲望―オルガスム―沈静という自然主義的サイクルから解き放つ」点を挙げているが、この話の延長として、坂爪真吾の『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』という本に言及しておきたい。坂爪によれば、私たちは性器が最大の性感帯だと思い込まされているが、最大の性感帯は実は性器ではなくて、全身の皮膚なのである。だとすれば、「好きな人とのスキンシップ」をセックスの中心に置くことが大事になってくる。そうすれば、将来、加齢や障害・病気で男性の勃起や射精が困難になったときにも、カップルが過度の挫折感や絶望感を味わわずに済み、セックスレスの予防にもなる(坂爪 2014:150-151)。
 坂爪の主張からは、私たちの考察にとって大切な二つの論点を引き出すことができる。第一に、「性交かセックスレスか」という二項対立は、「スキンシップもセックス」という考えによって相対化・無効化され、逆に、現代日本におけるリラクゼーション産業としてのマッサージやヨガの隆盛とその“性的”な(誤解を恐れずに言えば“性風俗”的な)意味も理解されることになる。第二に、性器的な性愛ではなく、スキンシップ的な性愛を根本的なものと見なすということは、性欲の根源を多型倒錯的なもの、部分対象的なものと見なすということにつながり、人間は広義のセックスにおいて相手をモノ化しており、私たちは“部分対象”――哲学的に言えば「偶有性」「個別性」――に向かっているという考えへと導かれることになる。この点については、アドルノやドゥルーズ=ガタリ、あるいは人格の“響存”に関するところで、ふたたび取り上げることにしよう。

次回:3月8日(金)更新予定

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