見出し画像

「とある町での13年間の記録」その1_113

13年間の記録を書いてみました。
書き始めたら思った以上に書けそうなので、第1弾です。
第2弾は気が向いたら書きます。
完全に自己満足のまとめです。

21歳@札幌市某ホテル

大学の卒業記念祝賀会に参加しているときに、とある町から電話が来た。
「あなたは○○学校に配属されます。」
祝賀会なので当然酒を飲んでいたわけで酔っ払っていた。
そんな町日本にあるのかと思った。いや、あったんだけどね。

携帯(当時はまだスマホではない)を取り出しGoogleマップを起動。
赤いピンが落ちた先は
「そこどこですか?」の町。ロシアじゃね?そこ。

まさかその町に13年いることになるとは思わなかった。

22歳@初任校

当然1番若い教員だった。
土曜日の部活が終わった後、生徒と一緒にパークゴルフをして遊んでから家に帰っていた。なんてノリの良い教員なのだろう(自画自賛)。
研修(授業の仕方や授業参観など)があればいろんなところに出て行った。

なぜか体育の授業も持たされた。水泳もやった。
途中からフットサルばっかりやったのを今思い出した。笑

そういえば、町の人に巻き込まれて駅伝を走らされた。走るの嫌いなのに。
しかも優勝したチームのアンカー。他の人ガチ。私ガチの素人。

焼肉にもしょっちゅう巻き込まれた。

「巻き込まれる力」は大事。

23歳@初担任

初めて担任したクラスは男子生徒4人だった。
「とりあえずスラムダンク読んでおけ」と学級文庫にスラムダンクを置いて、朝読書で読ませた。

学級通信は手書きで書いた。コスパは悪いし自己満足だったけど、そういう時期があっても良いと思う。

この年で勤務校が閉校になった。吸収される先に誰か教員もついていく必要があったので、「あなたでしょ」みたいな雰囲気になっていることに気づくまでそう時間はかからなかった。
※1回目の町からの脱出チャンスは失敗に終わるw

24歳@2校目。担任+学年主任

「学年主任と担任です」と電話で連絡が来た。
うそやん、と思ったが、アホなので10秒後には「やってやるかー」とポジティブになっていた。

30人を超える学級の担任は初めてで正直苦労した。
ここで同じ学年団を組んでくれた素敵な先輩に出会う。
今も時々ご飯に行く素敵な先輩だ。
そう、私は人との出会いにめちゃくちゃ恵まれている。

指導力など全くなく情熱だけでやっていたので、結構クレームをもらった。
どうやったら失敗するかがよく分かった年だった。
私と合わなすぎて学校から遠ざかった生徒もいたのが今ならわかる。

部活動が強い学校だった。
土日は8時から19時まで練習した(今の時代はこんなに練習できない)。
部活の恩師に出会った。本当に神レベルで指導が上手だった。
が、部活はこの年の1月に色々あってぶっ壊れた。
部活でも上手くいかなかった。

25歳@2校目。担任+学年主任+研修担当

この辺りは「人にも自分にも求めすぎてた。」と思う。

「こうあるべき」が強すぎて、本当にしたいことよりも「すべき」ことを大切にしてしまった。

部活動は全国大会に行けた。忘れもしないのは、地区大会で優勝したときに誰一人として喜んでいた保護者がいなかったこと。目を瞑ってオーダーを書いても勝てただろうけど、なんか寂しかった。

当時の選手が大人になって教育実習で一緒に働いた。
「当時は何もできなくてごめんね」と7年越しで謝った。
それに対してホッとする言葉を返してもらい、肩の荷が降りたのは2年前のことだ。

不登校生徒の対応も当然あった。毎日のように家庭訪問した。
「とりあえずこいつの話を聞いておくか」と思わせないとダメだと思ったので、前年の反省を生かしてその生徒や家族と接した。結局いまでも連絡を取り合う関係なので、よかったと思う。
家庭訪問しすぎて、「これ食べてください」と保護者からロールキャベツを差し出されて玄関で立ったままロールキャベツを食べたのは人生で最初(だし多分最後)。

26歳@2校目。卒業担任

初めての卒業担任。

卒業式入場前のホームルームで中島みゆきさんの「糸」を歌った。
カラオケは好きだけど、人前でアカペラで歌ったのは人生で初めて。
「歌ってましたよね、卒業式で」と卒業生と飲んでいたときに言われた。
覚えているものなのですね。

数年前にこの代と飲み会をしたときに
「先生が卒業式にくれた手紙とかいろんな資料まだ持ってますよ」と言われた。嬉しかったし、いつ誰にどんな影響を与えているかわからないな、この職業はやっぱり怖いな、と思った。

第2弾は27〜30歳のこと、2回目の脱出チャンス失敗の話です。次回もお楽しみに笑。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?