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【読書記録】はじまりは愛着から/佐々木正美

2023年10月27日〜11月1日

読み始めてすぐに、あれ?これは普通の親、普通の子に向けて書かれた本なんだな。と、自分で手に取っておきながら、ちょっと違和感を感じました。

継子と生活するようになって私は、本屋さんを見つけると、今まで足を向けることのなかった書棚を真っ先に探すようになりました。

『育児』と『心理学』

娘の問題行動に向き合う中で、『愛着障害』と『発達障害』について、学び、理解を深めなければならないと思ったからです。

『発達障害』については、過去に触れた通り、一度小児科医から診断が下されているので、今後は、本人が困難にぶち当たったときにも、指南書になるような本を選んでおきたいと思ってあれこれページを捲るのですが、『発達障害』と『愛着障害』は現れる症状が似ていると言われているからといって、娘の問題行動がすべて、『発達障害』に起因しているとは結論付けていませんでした。

なぜそう感じているかというと、娘は幼少期に実母と離別し、まったくの他人であった私と生活を共にし始めたという、所謂『普通の家庭』で育ったこどもではなかったからです。

違和感を持ったのは、『愛着障害』は『特殊な家庭』での出来事だと、無意識のうちに決めつけていたからではないかと思います。


確かに本書のタイトルは、『はじまりは愛着から』とされており、『愛着障害』とはひと言も書いていなかったのだと、読み始めてから気づいたのでした。

つまり、これから子育てを始める『普通の家庭』の親御さん、また、今子育てをし、悩みを抱えている『普通の家庭』の親御さんにも、ぜひ読んでみてほしい本だと思いました。

もちろん、『特殊な家庭』の親御さんにも。

そして、どちらかというと母親に向けて書かれた文章だとは思いますが、お父さんにも読んでいただけるといいと思います。



ここからは、私の気づきを抜粋して。

母性とは、父性とは

子育てをする中で、母性と父性という概念はよく耳にしますが、その正体については掴みどころがなく、特にこどもを産んだことのない私には、理解しにくい言葉でした。

著者は『子どもが健全な社会的存在として育つには、必ず順序よく、与えなくてはならない』と断言しています。

『母性とは、そのままでいいよという安らぎ、憩い、くつろぎの体験』

『父性とは、規律、約束、義務、努力、緊張などをを教えること』

まずは母性性、その後に父性性、と。

共働き世帯が増え、時間や情報に追われる現代を生きる我々は、父性中心の子育てになりがちなのではないかと思いました。

順序があるということは、そこを飛び越してしまった場合、やり直しをしなくてはいけないのだということです。

先日ちょうど、自分のnoteを整理しようと、今までの記事の中からマガジンを作ってみたのですけれど、【一緒にお風呂実験】や【読み聞かせ】などは、まさにこのやり直しだと思いました。


子どものウソ

私の父は誠実な人でした。
それ故に、『嘘つきは泥棒の始まり』とよく叱られたものです。

それでも私は叱られたくないあまりに、よく嘘をつくこどもだったと思います。
結局それでさらにキツく叱られるのですけれど。

大人になると、『嘘も方便』の重要性を知ることになり、それを上手に使いこなすことも、社会性に必要なスキルだとわかるのに、こどものウソを目の当たりにしたときに、その子の将来を危惧して、今のうちに正さなくては!と躍起になってしまうのは、無意識のうちに、大人のウソとこどものウソを別の物として扱っているからなのではないかと思います。

著者によると、こどものウソに悪意はなく、むしろ美しい心や気持ちからはじまるものなのだそうです。

自分が傷つかないように、相手を不愉快にしないように、とウソをつくのは、大人に限らないということを、私たち大人は知らなくてはいけないのだということでした。


親同士のコミュニケーション

子どもの共感性を育てるために必要なことが書かれたこの章では、親がコミュニケーションをとる姿を見せることで感受性豊かに学んでいくと説明されています。

その中で、私の心に響いた言葉は、「親の言うことをよく聞く」ような子どもになってほしいと願うこと以上に意義深いのは「親が子どもの話を聞く」ことだという一節でした。

親によく話を聞いてもらって、親に対して信頼を寄せれば、自ずと親の言うことを聞いてくれるようになるというのは、さまざまな育児書で謳われているので、頭では理解できるのだけれど、それがなかなか難しい。

けれども、「親の言うことをよく聞く」の主語はこどもであって、「子どもの話を聞く」のが親であれば、自分の行動を変えることの方が、よっぽど楽なことだと、冷静になればわかるのです。


子どもがピンチのときこそ、親の出番

著者はこの章で、世の親たちに第一義的に期待したいと前置きして、「保護者」の役割を全うしてほしいと言っています。

けっして「教育者」の真似をするのではないと。

実際に令和の今、小学生の子育てをする中で、学校教育とは?と考えることが多くあります。

昭和の時代は、学校の先生は「教育者」であったと思います。
今と比べると、ずいぶんと個性的な先生が多く、私の恩師の中にも、今の時代だったら完全にアウト!という先生は何人もいましたが、それでも、「教育者」であったと思うのです。

今は、すべての先生がそうだとは言いませんが、保護者をお客様、児童をお客様のお子様として預かっているというような印象を受けます。

学校では勉強を教えますので、躾や規律を教えるのは各ご家庭で、というような。

もちろん、「保護者」として、我が子に教えなくてはいけない責任があることは重々承知の上で、地域全体で子どもに教え、育てていこうという文化が薄まり、親は、こどもの人格全てを担わされている気がするのです。

だから、覚悟もないくせに親になるな!というような誹謗中傷を浴びせられてしまう。

産まれてきたこどもに罪はないと言うならば、どのような親から産まれてきたとしたって、大切な宝物として、みんなで教え、育てればいいじゃないですか。

そして、著者が言うように、先生に叱られたり、友だちにいじめられたり、社会生活で問題に直面したときに、親に頼れる親子関係でいられたら、今よりも子育ては楽になるのではないかと思います。

叱る役をすべて親が担っていたら、家庭の中にこどもの安らぎの場所を作れと言っても、無理な相談だと思うのです。

私が特になるほどと思ったのは、『どんな子どもでも、どんなに幼くても、プライドがありますから、自分の弱みや引け目を自ら表現しようとは思いません』という件でした。

核家族化で、親も追い込まれているけれど、こどもの方も安心して、弱みや引け目を見せられる場所を失っているのかもしれません。

どちらがいいとか悪いとか、簡単には語れませんが、こどもを取り巻く大人の役割が、たった半世紀足らずの間に、すっかり変わってしまったのだと、つくづく感じてしまいます。


思春期の反抗をどのように受け止めるか

さて、いよいよ思春期に突入してしまったツムギですが、一緒に住み始めたのっけから反抗的な態度をとっていたので、実は家庭での思春期については、さほど不安には思っていません。

ただ、友達との関係や、異性との関係が複雑化していく中学高校、その中での娘については、夫と共に心配をしています。

最も、夫は最近、「ツムギはケイトの言うことはよく聞くんだ」と弱音を吐くようになって、家庭内で見せる娘の思春期姿にも、不安を感じているのではないかと思いますが。

『思春期の子どもは、一種の欲求不満ややり場のない怒りの気持ちを常に抱いていることを承知しておくべきだ』

誰もが通ってきた道。
私にも覚えがあります。

まるで、すっかり大人になったような気になって、まだまだ小さな世界をすべてだと勘違いして、人間関係がうまくいかなかっただけで、消えてしまいたいとさえ思っていた思春期。

アンジェラアキさんの、『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』を初めて聴いたとき、自然と涙が溢れてしまったのは、間違いなく、その時代を体験して大人になったという証拠なのです。

それでも私たち大人は忘れてしまいます。
その真っ只中でもがいているこどもに、その長いトンネルを抜けた先から、余計な助言をしようとしてしまうのです。

私は、中学生の時に書いた日記を、未だ捨てずに保管してあります。

HBのシャープペンシルで、当時流行っていたまる文字で、小さく書き込まれた言葉の数々を、弱ってきた視力で読み解くことは根気がいる作業です。

しかも、おそらく内容はほとんどないはずの、読むに耐えない日記です。

それでも、中学生になる娘の思春期に少しでも寄り添いたいので、これを機に勇気を出して読んでみようと思っています。

その内容のなさが、きっと思春期そのものだと思いますから。


大人になることを恐れないで

ままごと遊びをするときに、女の子はこぞって母親役をやりたがり、男の子は父親役を望んでいたのは過去の話で、ここ20年ほどは、ペット役をやりたがるのだそうです。

依存体験、すなわち、甘えの体験が不充分であるため、ペット役に憧れを示すのだと著者は述べています。

大人が憧れの存在ではなくなってしまっている。

このことにも、もっと危機感を持たなくてはいけないと思います。

ともすれば、親そのものが、大人になりたいと本気で思っていない人が多い世の中なのかもしれません。

依存体験を不足させたまま親になり、友達親子などと言って、依存し合う。

幸い、私は娘と40歳も歳が離れた、それこそいい大人なので、我が家では、しっかりと線引きをし、大人は自由で楽しいものである。自由になりたければ、早く大人になればよし。と伝え続けています。

しかし、先日、友達親子とみんなで、兄弟姉妹について話をしていたとき、ひとりっ子の娘が、「お姉ちゃんがほしい。もっと甘えたい」と無邪気に話しているのを聞いて、少しドキッとしました。

娘はすぐに「親に甘えるのとはまた違うじゃん!」と、私の心配を否定してくれましたが、こちらが思っている以上に娘は、依存体験が充分ではないのだということを再認識したのでした。


母子家庭、父子家庭で大切なこと

母性と父性については、先にも触れていますが、著書の中でも繰り返し語られています。

ここでは復習を兼ねて、わかりやすかった表現をご紹介しておきます。

『「子どもの言うことや気持ちをよく聞いてやる」のが母性で、「こちらの言うことをよく聞く子にする」のが父性』

これを同時に行おうとすると、それこそ、片親家庭などは混乱してしまうのだと思いますが、初めに著者が断言していたように、順序立てて与えるものと知れば、少し肩の荷も降りるのではないかと思います。


いい母、いい子という価値観

いよいよ最後の章になりますが、愛着形成が主に母親に課されているかのような錯覚に陥る原因を、すっかり払拭し、ストンと腑に落ちるよう纏められていました。

『子どもだけでなく、私たちは、日々を生きていくために必要な精神的、物質的な物事の基本に「母なるもの」を象徴として置くほど、母性を求めて生きています。たとえば生まれ育った国を母国と呼び、学んだ学校を母校と言います。「母なるもの」は、受けいれ育てる大きな存在なのです。』

特に、ステップマザーである私は、ツムギに対して、母親であるか母親でないか、というような、役割名について自問自答、時には、ツムギ本人に問題をぶつけてきたりもしてきました。

『母』という言葉自体に、『母親』という実体が重なるため、つい混同してしまいますが、『母国』『母校』というように、『母』を単なる概念と割り切ってしまえば、なんら抵抗なく、『母』と名乗れる気がしました。

『母親』というか、『母人』

こども時代にそこで生きていた場所のような。

『母家』にいた、『母人』

生まれ育った故郷を懐かしむようなとき、そこにいた人として存在できていたら、それだけで娘は、自分の人生を安心して歩んでいけるのではないかと思いました。


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