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上野に西郷さんの銅像があってよかった

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 
今朝は少し散歩がてら上野公園まで行ってみました。
実は西郷さんの銅像を目の前にしたことがなかったのですが、今回初めて銅像の近くまで行きました。
 
西郷さんの銅像が上野に立っていることについては、明治維新時の彰義隊戦争で西郷さんが新政府軍を指揮していたから、くらいの認識はあったのですが、上野公園のなかでも立っている場所に意味があることを今回初めて気づきました。
 
それは、西郷さんの銅像から階段を降りることすぐに、上野寛永寺の黒門跡があったためでした。この黒門は彰義隊戦争の最大の激戦地で、西郷さん率いる薩摩藩が攻めた場所としても有名です。
 
司馬遼太郎さんの「花神」では、黒門を薩摩軍が担うと薩摩軍は全滅してしまうという西郷さんと、それでも黒門は薩摩軍に担わせようとする長州の作戦参謀、大村益次郎との緊迫したやり取りが描かれています。
結果としては、大村益次郎の卓越した作戦力と、新政府軍の最新兵器、そして西郷さんのリーダーシップで新政府軍は彰義隊に圧倒しました。それでも、この黒門付近が激戦になったことは間違いなく、戦後に南千住の円通寺に移された黒門には無数の弾痕が残っています。
 
上野のなかでも寛永寺黒門の近くだったからこそ、あの場所に西郷さんの銅像が建てられたのです。
そして、勝者もいれば敗者もいます。
これまた黒門近くの西郷さん銅像裏手すぐに、敗者として亡くなった彰義隊の人たちのお墓もあるのです。お墓の方角からなにやら西郷さんの銅像をにらむようにも感じますが、私にはそうは思えませんでした。
 
西郷さんの銅像も、このお墓も、二つ並んで黒門側を見つめているのです。
それは、新政府軍と幕府軍という敵同士というより、かつての戦友同士が激戦地を眺望し、150年以上の時間を超えてお互いの犠牲者を哀悼しているのでは、という感覚さえ覚えます。
 
そんな風に感じるのも、西郷さんが時代に取り残された士族たちを道連れとして、西南戦争で最後は散ったからかもしれません。幕府の没落に殉じて散った彰義隊の人たちと、士族の没落に殉じて散った西郷さん。お互いに相通じていて、どちらかを断罪するようなものを感じません。そこには西郷さんの懐の広さ、優しさも感じます。
 
そう考えていくと、人の弱さをふところ深く受け止め、それに殉じてもくれる西郷さんの銅像が、いろいろな人生が交錯する雑踏感がある上野にあることで、多くの人がいやされてきたのかもしれません。


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