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優柔不断であることが、更なる悲劇を生むこと

この肖像画、誰の肖像画でしょうか。昔の歴史教科書で学ばれた方なら、鎌倉殿の13人にも出てきた「源頼朝」と答えられると思います。しかし、現在ではこの肖像画は「源頼朝」とは考えられておらず、他の人物のものと考えらています。
 
その有力候補として、「足利直義」が考えられています。
この足利直義、一般的には決して有名ではないですが、室町幕府を創設した足利尊氏の弟になります。
 
直義は尊氏をよく支え、その弟の助けもあって尊氏は室町幕府を開くことができたとも言える人です。
また、武門の棟梁としての器や統率力を備えながらも、あまり政務に得意でなかった兄尊氏に代わり、弟直義は室町幕府創設期の政治の中心となります。
 
私は、そのまま行けば、この足利尊氏・直義兄弟は、お互いの弱みを補完する、歴史に残る名兄弟として記憶されいたのでは、と考えています。
 
しかしながら、この兄弟は逆に、歴史に残る兄弟戦争を起こしてしまいました。「観応の擾乱」と呼ばれる戦争です。最終的には尊氏が勝ち、直義は負けるのですが、戦争後に直義は毒殺されたと記録されています(毒殺については有力異説もあります)。
 
なぜ名兄弟が、歴史に残る兄弟戦争をしてしまったのか。
大きな原因の一つに、足利尊氏の息子、足利義詮を尊氏の跡取りにしようとしていた勢力が、政治を担う直義の追放を図ったことが大きくあります。その動きに対して政治力がある直義が大きく反発したことが、大きな戦争になっていきました。
 
これは私の見方なのですが、尊氏が直義に政治を委ねるにしても、将来的に義詮が大きくなった時にどのように権力承継等を行うのか、尊氏・直義間で取り決めしなかったことが、この戦争を引き起こした一因なのではないかと考えています。そこには、尊氏の優柔不断ぶりもあったのだと思います。
 
「観応の擾乱」に関する本を読んでも、最後まで兄弟間で激しい憎しみがあったようには思えません。兄は弟を、弟は兄をなんとか殺すことがないように各所で配慮しています。しかしながら、権力承継にともなう混乱は、兄弟を容赦なく戦争に巻き込んでいきました。
 
この戦争の前後から、尊氏は政治に対して主導的に取り組むようになっていったと言います。最終的な責任者でありながら、ものごとをはっきりしない優柔不断さが、どういう悲劇を生むのか感じ取ったのでは、という気もします。
 
ものごとをはっきりさせる、というのは時には人に厳しいものを強いることもあります。しかし、それを後回しにすればするほど、さらなる悲劇を生むことがある。現代に通じる本質を、この故事は教えているようにも思います。

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