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自省録 わんこ

自省録 わんこ

 「反省」というものは、我々の人生に常について回る小さな妖精のようなものである。彼が不意に耳元でささやく「反省点」は、ネジになって心に刺さり続ける。
心にはまった「マイナスネジ」は、持ち前のポジティブシンキングをもってしても抜くことはできない。適切な「ドライバー」を使う必要がある。
それが僕の、『自省録』である。

 どれくらい前だっただろうか、僕はある嘘をつき始め、今や笑顔でその嘘をつける極悪人になってしまった。お父さん、お母さん、こんな息子でごめんなさい。

 世の中には動物を愛する殊勝な方々がいる。彼らはペットとしてではなく、家族の一員としてわんこと暮らす。その愛は、形を変え、しばしばこちらへ向かってくることがある。
「うちのチョコ(仮名)、超かわいくない!?」
彼らの愛に満ちた表情は、僕を和ませるが、つらくする。
広大な社会の一縮図のような同調圧力に僕は屈し、ティースプーン一匙の罪悪感と共に、「かわいい!今何歳なの?」という定型文を発する。
幾度となく繰り返される虚言の蓄積は、僕を苦しめたりするほどの精神的葛藤では勿論ないが、ただ申し訳ない気持ちになる。

 僕はわんこがそれほど好きではない。

 あれはもう20年ほど前、直立二足歩行を得意気に披露するようになった僕は、愛らしいマシマロのようなボディを揺らしていた。特にほっぺは、触れる者たちを狂わせた。無論、家族は僕のほっぺを取り合った。
両親は、領土分割に着手し、「ほっぺぷにぷに条約」は、本人の意思とは関係のないところで締結され、家庭の平和をもたらした。(数年後、僕により破棄されることとなった。)

 そんな「パックス・プニプニ」の頃、横浜市内を悠々と闊歩していた僕に襲い掛かった災いを忘れることはない。巨大なわんこ、いや奴はもう「獣」と形容してよいほどの体格であった、が僕のマシマロボディに襲い掛かってきたのだ。
わんこの名誉のためにも補足させていただくが、彼もまた被害者なのである。彼がじゃれて遊びたくなるほど、当時の僕はかわいらしかった。
わんこさえも魅了してしまった当時の罪な僕をどうか許してほしい。

 純真無垢なマシマロちゃんの心に恐怖を植え付けるには十分であった。それ以来、僕はわんこが少し怖い。この一抹の恐怖は、数々の記録を生むこととなる。
有料の「どうぶつふれあいコーナー」を、涙を浮かべながらものの数秒で立ち去るという歴史的記録を樹立し、街中でわんこを見つけると全力疾走で逃げ出した。気づけば、小学校では俊足の称号をほしいままにしていた。

 ここ数年、徐々にわんこに触れられるようになった。
「おや、この子はかわいいぞ」と思うことも稀にある。しかし、未だに苦手意識は捨てきれない。どうにかDIYしたいものである。

 ちなみに、にゃんこは大好きである。

本人公認の本人です。