第15回 甥と猫とソシュールと【雑感】
始めに(注意書き)
はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。
コラム『吹井賢の斜に構えて』第15回は、吹井賢の一歳の甥、実家の猫、そしてソシュールの話です。
最初にお断りをば。
※下記の内容は吹井賢の感想に過ぎません。
※特にソシュールについては大学時代の講義で得たかなりあやふやな知識で語っています。
それでは始めます。
『一歳の甥』と『実家の猫』と『ソシュール』
最初に表題にあるそれぞれの解説をしようと思います。
・『一歳の甥』
吹井賢の甥。正確には一歳と少し。一語文が話せ、吹井賢が何かをあげると、「ありあと」と言う。かわいい。
・『実家の猫』
吹井賢の実家で暮らす猫。だが、実は吹井賢の家の猫ではない。椥辻霖雨風に言えば、やむなしな事情があって、吹井賢の家にいる。ここ数か月は、新しくやってきた後輩の猫に悪戯されてよく怒っている。かわいい。
・『ソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール)』
「この人がいなければ現代の言語学は成立していない」と断言しても全く過言ではないほどに偉大な言語学者。別にかわいくはない。
ぬいぐるみの犬と座っている猫を「同じ」と言った甥
今から話すのは、今年のお正月の出来事です。
年末年始、この甥は両親に連れられて、実家に帰ってきていました。彼の年齢からして、連れて来られた場所が「自分の親の実家」だと認識してはいなかったでしょうが、まあ、彼の親にとっては里帰り、彼にとってはおばあちゃん・おじいちゃんの家への訪問です。
(「里帰り」と言うほど遠くに住んでいるわけでもないのですが……)
この甥、一語文が話せます。
『一語文』とは教育学などの用語で、幼児が話す「わんわん」「ブーブー」などを指す言葉です。
さて、甥はクリスマスにサンタさんから貰ったという犬のぬいぐるみを持ってきていました(写真で持っているものがそれ)。
そんな甥は、ある時、猫を見つけて、その隣にぬいぐるみを置き、こう言いました。
「おなじ!おなじ!」
甥の母親は「同じじゃないよ。猫ちゃんだよ。にゃんにゃんだよ」と声を掛けており、当の猫は滅茶苦茶に怪訝そうな顔で甥を見ていたのですが、吹井賢の頭にふと疑問が浮かびました。
”犬のぬいぐるみ”と”猫”。
……何が”同じ”なんだろう?
”わんわん”とは何を指していたか?
吹井賢は子どもの発言を否定・訂正することが嫌いなので、
「そうだねー、おんなじでもふもふだねー」
と適当に同意しつつ、一つの仮説を考えました。
その仮説とは、「甥は犬と猫が区別できない」というものです。
犬と猫が区別できていないのならば、必然的に犬のぬいぐるみと実家の猫は”同じ”になります。
生きているか、ただのぬいぐるみか、という違いはありますが、それこそ彼は理解していないでしょう。
即ち、彼の認識する世界においては、”もふもふした四本足の動物”が『わんわん』なのです。
さて、同様の事象を見ていた吹井賢の母、つまり甥にとっての祖母は、違う推測をしていました。
曰く、「同じ色だ、って言いたいんじゃないかな」。
なるほど、これも納得できます。
確かに実家の猫も犬のぬいぐるみも茶系統。
甥は一語文しか話せないため、例えば「私はご飯を食べたい」と「これはご飯です」のどちらもが「ごはん」という一語に集約されます。
これが一語文の特色です。
(二語文の場合、「ごはん、食べたい」「ごはん、ある」となる)
その後、甥はミカンを食べながら「りんご!りんご!」と頻りに話していたため、どうやら吹井賢の推測の方が正しかったようです。
つまり、一歳の甥は、僕達よりもかなりアバウトに世界を認識している。
”もふもふした四本足の動物”は『わんわん』だし、
”甘くて丸い食べ物”を『りんご』と捉えている。
これを間違いだと言うのは簡単ですし、まあ実際日本語としては間違いなんだけども、吹井賢の頭には何か引っ掛かるものがありました。
なんか、こんな話、あったような……。
……ソシュールだ。
ソシュールが言ったこと――「犬という存在が『犬』という名前である必然性はないし、犬と猫の差異は人間が見出している」
言語学者ソシュールの提唱した概念で最も有名なものは「『シニフィアン』と『シニフィエ』」でしょう。
『シニフィアン』とは、例えば”犬”という呼び方や漢字のことです。
対し、『シニフィエ』とは、”犬”という概念そのものと説明されます。
これだけ聞くと「何言ってんだ?」となりそうですが、多言語と比較してみるとよく分かります。
”犬”という概念自体は日本でもアメリカでもそう変わりはないでしょうが、同じ”犬”のシニフィアンは日本は「犬」で、アメリカは「dog」です。
全く同じ存在でも、呼び方や名前――つまり、シニフィアンが違うわけです。
しかも面白いことに、このシニフィアンとシニフィエの結び付きは恣意的なもので、”犬”という概念が”犬”という呼び名に結び付けられていなければならないわけではない。
(実際、先述した通りに英語圏では「dog」)
だが一方で、その言語体系においてはその結び付き(『シーニュ』)が絶対的なものである。
更にソシュールが面白いのは、「言葉は世界を分節するもの」と定義したことです。
滅茶苦茶に平たく言えば、「言葉によって世界は区切られ、認識されている」。
同時に、「その”何かしら”を認識する必要があったからこそ、”何かしら”に相当する言葉ができた」。
僕の甥は犬と猫を並べ、「おなじ」と言いました。
それは日本語としては間違っています。
何故ならば、”犬”と”猫”は異なる存在だからです。
しかし、ご存知でしょうか?
日本における「ツナ」は「マグロ」を意味しますが、英単語としての”tuna”はマグロ系の魚全てを指します。
どういうことかと言うと、「カツオ」もツナです。
つまり、”tuna”という単語が生まれた言語体系においては、マグロとカツオを区別する必要がなかったと推測できるわけです。
このような事象は世界に有り触れています。
(フランス語圏では蝶と蛾を区別せず、どちらも”papillon”である、など)
僕の甥は犬と猫を並べ、「おなじ」と言いました。
それは日本語としては間違っています。
何故ならば、”犬”と”猫”は異なる存在だからです。
しかし、どうなんでしょうねえ。
どうして、”犬”と”猫”は違う存在なんでしょうか?
誰が「違う」と決めたんでしょうか?
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
甥の話を思い出すキッカケになったので、宣伝しておきます。
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最後に宣伝!
ところで、『ライトノベル』ってどういう概念で、何故生み出されたんでしょうね?
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