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おかしな形


自分の行動が他者に及ぼす影響を真剣に考えると何もできなくなる。小波さざなみすら立てたくなくて、「凪」を作るために、何もしない。
でも「凪」は恐ろしい。嵐の前の静けさかもしれないし、カームベルトの下には海王類がうようよいるかもしれない。静謐な時間のなかに潜む「死」への入口。

酔ってないのに酔ったフリをする。できないのにできるフリをする。その逆もまた然り。他者によって少しずつ歪められていく自分の印象を心地良いと思うと同時に怖いとも思う。だからあらかじめ少しだけ歪ませておく。そうして他者によってだんだんと歪んでいく形と整合性を保つためにまた自らを変形していく。しんどいと思った時にはすでに遅くて、大抵の場合、取り返しのつかないことになっている。

小さなコミュニティにいて、それがダイナミックに展開されるときほど恐ろしいものはない。学校でも、会社でも、住んでいる街でも、それは変わらない。私たちは常に何らかのコミュニティに属しているし、「所属」の心地良さも自覚している。だからどこかに所属せずにはいられない。人間はそもそも弱くて1人では生きていけないから、みんなで支え合って…的な美学がどこかで働いているのだろう。

自と他の関係は、お互いを歪め合っていくことへの快楽が付きまとう。相手に抱いた印象を当人に伝えるときほど快感なことはない。そのとき、人の脳内はドーパミンがどばどばで興奮がクレッシェンドしている。

サルトルの存在論が一種のサディズムだとして、お互いを歪み合う奇妙な関係をマゾヒズムだとしよう。人であることをやめて事物になる。相手の見たいように見られる事物。いくらでも変形可能な事物。相手によって形も色も変えられる。この変形に伴う快楽を問題にしたとき、「見るー見られる」のシンプルな構図は「変えるー変わる」をカッコに括った力学的な関係を発生させる。そしてこの関係性は簡単に逆転可能である。だからこの場合の快楽はサディスティックではなく、マゾヒスティックに振れる。
これこそ自と他のエロティックな関係ではないだろうか。人の視線はいつだって一定の魔力を含んでいるし、言葉はほとんど魔力の塊みたいなものではないか。

この文章の始めに書いた、「しんどい」と感じる原因は、この事物として変形させられたいびつさを自分の心の形に見てしまっているからだ。しんどいならそんな関係やめてしまえばいい。他者とのつながりは何もエロティックな関係だけではない。

「私は海をだきしめていたい」と書いた坂口安吾だって、あれは究極のエロティックな関係への憧憬ではないか。他者の存在を事物化し肉体関係へ終始する男の懊悩が、事物の究極(=海)を抱きしめることを夢見て終わるではないか。自と他の非エロティックな関係に入れなかった人間のデカダンが、当時の文学的芸術性を高めたことは事実だが、「死」への扉を前にした悩める読者を、向こうの世界へ誘うような文学作品は、今の私には少々キツいのである。


むしろ私は、「生」に満ちた人の世を歩みたい、と思うのである。


誰からも何からも歪められず、自分だけの世界へ入ることは「死」を意味するけれど、そんなものは虚妄に過ぎない。人間が作り出したイマージュに過ぎない。なぜなら地球上のあらゆる生物の中で人間だけが「死」を知っている⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎からだ。そういう意味で「エロティシズム」と「死」は深いところで繋がっているが、そんなイマジネーションの世界で懊悩するくらいなら、現実に触れて、現実に悩んで、現実に生きたい。それは「凪」を生まず、ざぶん、ざぶんと波立っているかもしれないけれど、それでいい。

おかしな形はおかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形ということも、あるんじゃないかなあ

向田邦子『あ・うん』


関係の網目の中で生きている以上、何らかの引力が働いておかしな形になることだってあるだろう。それをマゾヒスティックに捉えるから、おかしなことになってしまうのだ。イマジネーションの世界ではなく、現実に触れる実際的な力を働かせて自分を中心とした非エロティックな関係を築いていければ、それに越したことはないのではないか。



さて、いろいろと書いたが、とりあえず筋トレでもするかな。





ではまた。


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