0のプライド


錦糸町駅北口すぐにある錦糸公園の夜は若いカップルや騒がしい大学生がやんややってる足元で数えきれないほどのラットが餌を求めチューチュー駆け巡っている。
普段から足元に視線を落としながら歩く僕には、うごめく奴らの鳴き声と若者の騒がしい声が、つまり足下の世界とアイレベルの世界が、図と地の関係で反転していると言える。いや、言えないか。


そんなこんなで、公園のベンチに置いてあった日経新聞に視線を落とすと、「地球12万年ぶりの暑さ」と見出しがあり、発行の日付は先週だった。12万年ぶり? 理解が追いつかない。まぁでもたしかにそれくらいには暑いかもしれない。けど、僕の疑問は、12万年前ってそんなに暑かったんだぁ、というもの。ただそれだけ。


目標もなく、なんとなく、生きている。本気になれる何かがなくて、アンニュイな日々を過ごす。気分の起伏をなるべくなくしたくて、読む本も観る映画も、内容の難解なものや単につまらないものを好むようになる。日々の生活で「凪」の状態をつくりたくて、つくろうと苦心してる時点で小波さざなみが立っている。色んなことを0に収束させたい。プライマイゼロ。いい響きだ。プラスでもマイナスでもない、唯一の0。でも唯一を目指している時点で、それは0ではなくなる。0とはなんだろう。


仕事をしていても、感情移入しないように心がけている。低燃費で走りたい。向上心が全くないわけではないけれど、どちらかといえば、ない。出世欲もないわけではないけれど、どちらか…以下同文。


目標を設定して、何年後にはああして、何歳にはこうして、というのが苦手。苦手、というより、そういうのを嫌厭けんえんする。
生きるのなんて確率だ。死ぬことだって確率だ。明日死なない保証なんてどこにもない。そんな確率論が嫌で嫌で、0にしたくなった。でも0とはなんだろう。


生きるも死ぬも等価に考えてみてはどうだろう。でもそれはイコールの関係になるだけで0になることではない。
じゃあ0って、なんなの。


人はいつかは死ぬ。つまり死に向かって生きている。死が最終的な結果で、生きることはその過程。「死」への過程が「生きる」こと。こうしてひとつの終着点にベクトルを向ける。このベクトルの向かう先が0だったとしたら。死が0になることだとしたら。なんて、こんなこと考えても無駄だ。


長所短所の考え方を、0を基点としたプラスマイナスで考えたい。そうすると僕らはみんなプラスもマイナスも十分に備えた凸凹な存在だ。それらを均して0にできればいいのに。
人間ひとりのコモディティ化。細胞60兆個のコモディティ化。そんなこと可能だろうか。


エルヴィス(Elvis Presley)の「ラヴ・ミー・テンダー(Love Me Tender)」をリクエストする。都内は中野のミュージック・バーで酒をあおりながら、深い海の底へと沈みたくなって。この曲を聴いてると体が鉛のように重くなる。ウイスキーの味なんかとっくにしなくなった舌先で、海の味を感じたくなる。満ちたり干いたり、人の心はうしおみたいだ。

隣に座る中年サラリーマンがニヤニヤしながらこちらを窺っている。「お前には大義がないのだろう。だから生きていても、ただ生きているだけで、もはや死んでいるように見えるのだ。お前みたいなやつは、さっさと死ぬか、あるいは死ぬための大義を見つけるべきだ。大義が見つかれば、お前はそのために生きていればいい。」と中年の目は語っているようだった。そんな説教くさいことを語る中年の目には、眼脂がんしが溜まっていた。僕は目の前のラフロイグを中年の顔にぶっかけてやりたい気持ちを抑えて店を出た。
この日は最低な気分だった。


0と言ってわかりづらければ、ニュートラルな状態と言っていいかもしれない。右でも左でもなく、派閥に属さず、宗教に信奉せず、思想の偏りをなるべく正して……、そんなこと本当にできるのだろうか。


何もないことが0?
虚無の極み?

……でも、「ゼロ」がある。
0であることが、僕らの生き方なのだ。
僕は0を持ち続けたい。0であり続けたい。

それが僕らの生き方で、プライドだ。

0であることを誇ってもいいじゃないか。
ただ生きているだけでもいいじゃないか。
なんとなくでもいい。大義なんてなくてもいい。
どんな時代に生まれても、生きていればいい。
人はみな、死ぬときは死ぬ。それだけだ。






ではまた。



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