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「べき」が怒り・対立・分断を生み出している

子供から大人まで、日々の生活の中で様々な「べき」に遭遇する。

○○ならこうある「べき」。

☓☓はこうある「べき」。

多くの「べき」に囲まれていると、そのことがさも目指すべき当たり前かのように感じてしまう。

少し前の時代では、信じられないレベルの「べき」が日本社会を覆っていた。

・子供は外で遊ぶべき

・学生はもっと勉強するべき

・男は立派に会社に勤め、結婚して家を買って、一人前になるべき

・女はクリスマスケーキの年齢になるまでに結婚して、家庭に入るべき。

・車は新車で持つべき

・保険には入るべき

・石の上にも3年、会社をすぐに辞めるのはやめるべき

・若いうちは苦労は買ってでもするべき

・先輩の理不尽には耐えるべき

・目上のものに対して礼を尽くすべき

正直言ってこれらは今になってみれば一部かなり極端であるように感じるものの、いわゆる昭和・平成は空気のような当たり前の価値観。

ここまで極端なものについては無くなりつつあると信じているが、価値観という意味での「べき」は、今でもその残滓が残っている。

言葉に出さなくても、特定の人によってはその価値観を引きずり続けていることを感じさせられることもある。

そしてその雰囲気をそのような人の言葉の端々に感じることもあり、それらに対して心の中で大きな反発を感じることも多いに違いない。

そしてこのような「べき」に支配されている空間からはいずれ人がいなくなり、消滅するようになってきたように感じる。




「べき」がもたらすもの、それは多くの怒りと対立と分断。

「べき」は「べき」状態でないものすべてを悪い状態とみなす。

その結果として、悪いものに対する怒りやいら立ちが生じるようになる。

もしくは「べき」でないものに対して「遅れている」「レベルが低い」「たいしたことない」などと下に見る傾向もある。

その結果として生まれるのが、「べき」の状態でないものとの対立。

対立することによって、ますます怒りの感情が増幅され、それが「べき」の状態であるものと「べき」の状態でないものの溝がさらに広がっていく。

最終的にはそれが大きな分断になり、大きな衝突含めて取り返しのつかない状態になることもある。

もちろん時には「あるべき姿」という形で、現在と理想のギャップを描いて認識させることで、それに向かって全力を尽くすように促すこともあるかもしれない。

いわゆるドライビングフォースとしての「あるべき姿」の有効活用。

ただ、ここで使うあるべきというものについても同様、「あるべき姿」以外のものをすべて否定することになる。

だからこそ、当たり前に良いことのようにとらえられがちなこの「あるべき姿」というものについて、実はかなり注意するべき言葉であるように感じる。




そもそも「○○であるべき」という絶対的なものは存在しない。

どのような状態であっても、何も問題はない。

もちろんある物事に対する「効果性」という観点で、ある状態であることが物事が進みやすいということはあるかもしれない。

だからといって、それに合わせていることが絶対的な正義とは限らないし、それ自体が良い・悪いというのも存在しない。

べきに支配されている空間ほど、不自由で居心地の悪い空間はない。

そして同調圧力の激しい空間では「べき」が常に溢れている。

空気のように「べき」が存在することによって、多くの排斥が生まれてきた。

その結果として、様々な悲劇が生まれてきた。

もちろん「べき」によって秩序や利権などが生み出されて、富をもたらすことがあったかもしれない。

ただ、これからの時代の「べき」は、今まで以上にネガティブな要素がかなり多くなってくるに違いない。

そして自分自身に巣食う目に見えない「べき」についても、今一度見直してみるのもいいかもしれない。

もしかしたらその「べき」こそが、あなた自身を不自由にさせている根本要因であるかもしれないのだから。




ありがとうございました。

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