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「保有すること」は縛られるということ

引っ越しに向けて、現在自分が何を持っているのかということを整理している。

大きいものでは、机や楽器、スノーボード・サイレントピアノ・ロードバイク・オートバイ諸々、それ以外も含めて思った以上に数多くモノを保有している。

そうなってくると次の部屋については、求められる広さはある程度条件が決まってくる。

その上に諸々の条件を考えることで、選択肢がかなり縛られてくる。

改めて感じたこととしては、モノを数多く保有し続けることは、自分自身の選択肢をかなり狭めてしまうということ。

逆に言うと断捨離を行うことは、より選択肢を広めることが出来る可能性があるということ。

最近の人がミニマリスト・断捨離に走ることが多い背景も、ここにあるような気がしている。








保有しているものが多いことは、縛られるものが多いという事。

それは目に見えるものだけとは限らない。

組織に所属するということは、その組織に縛られている。

人間関係が豊かな人は、その人間関係に縛られている。

知識が豊かな人は、その知識に縛られている。

役職・地位を持っている人は、その役職・地位に縛られている。

資産を豊富に持っている人は、その資産に縛られている。

有名である人は、有名であることによって縛られている。

自分のルールを持っているということは、そのルールに縛られている。

過去の経験が豊富な人は、その過去の経験に縛られている。

常識的である人は、常識に縛られている

上記のように、目に見えない認識が難しいものでも、所有することで縛られていることは沢山ある。

その結果、自分自身は自由に物事を選んでいるつもりでも、「選ばされている」という状態(自由意思なし)になっている。

つまり多くを保有するということは、真の自由であるという状態とは真逆に進んでいるという認識しておくべきである。











では、自由を得るためには保有するものを出来るだけ手放すほうが良いのか。

私はそういうわけではないと思っている。

それは縛られることによって、選択肢がある程度明確化されるというメリットがあるから。

縛るものがなにもなければ自由ではあるものの、進むべき基準がほぼなくなってしまう。

もちろん自分である程度の選択基準を持ち、自由に進んでいくことが出来れば問題ない。

ただ時と場合によって、何も縛られていないというのは「基準がない」ということにもなりかねない。

その結果「何もしない」という選択肢に留まることもある。

「何もしない」ということも「何もしない」という選択をしているという認識をする必要がある。

それを選んだ結果の責任は、何もしないという選択をした自分自身にあるから。

「何もしなかったのに、何でこんなことがおきたのか?」ではなく、それは「何もしないという選択をした」という結果であることを受け入れる必要がある。

ただ「何もしなかった」ということは、責任の所在が自分であるにもかからわらず認識しにくい上に、心理的に納得しにくいところがある。

だからこそ、選択肢が絞られて進んでいる感覚があったほうが、自分が責任を持って進んだという感覚を持ちやすいという意味ではより良い選択になるかもしれない。

それは保有することが物事を前進させることでもあるのだから。

保有することで新しい自由・選択肢を手に入れられることもあるのだから。










一番大切なのは、まず「私は○○を保有しているということは、○○に縛られている」ということを客観的に認識すること。

そもそも無意識に縛られている状態では何も手放すことが出来ない。

だからまずは意識下におくことがとても重要。

そうすることで今後も縛られながらも仲良く付き合っていくか、それとも手放すかを初めて選択できる。

認識することが出来たら、次にその影響を見ること。

そしてその影響が自分の中で望ましい結果でない可能性を引き起こすなら、それは手放す必要があるかもしれない。

もちろん手放すことの影響も含めて総合的に判断したうえでとなるが、おそらく合理的にある程度の物事は手放すことが可能。

ただもし自分自身が縛られすぎてて、今の状態で満足いく未来があまり見えないならば、敢えて「非合理に手放す」ということも選択肢に入れてもいいかもしれない。

というのもそれによって要となる思わぬ縛りから解放され、新しい未来が思い描ける可能性もあるのだから。










ありがとうございました。

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