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日本というハイコンテクストな言語世界にて

世界中に色々な言葉が溢れている。

日本語はもちろん、英語やスペイン語、アラビア語や中国語、マイナーな言語含めて数多くの言葉、それらがそれぞれの国や民族によって使われる言葉が異なる。

その結果として、異なる言葉同士では通じないことで文化が簡単に混じらないで独自性を保つことが出来て、その特殊性が希少性に繋がったりもする。

一方で言葉が通じないことは、争いや諍いの要因になることもあったりもする。

なので多くの言葉の種類があるということが、この世界を今まで構成してきた要素の中でも非常に大きなものを示しているように感じる。






ところが状況がかなり変わってきたのがここ最近。

というのも技術革新がとことん進み、言語の壁を超えることが、今まで以上に簡単になってきたから。

翻訳や通訳は、ネットを介すことが出来れば誰でも簡単に出来るようになった。

そして今となってはAIによる自動翻訳が進み、即座に多くの言語をかなりハイレベルに翻訳することから、その障壁が取り除かれつつある。

その結果として、言語を障壁としていた職業や仕事、様々な物について全員が同じ土俵に乗るようになり、究極のグローバル化が進む可能性が出てきている。

しかしながら、この言語障壁を超えたとしても、さらなる大きな壁になりうる特性が言語にはある。

それはハイコンテクストな言葉世界ローコンテクストな言葉世界の間にある壁である。






ハイコンテクストとは、言わないでも通じ合う、言語にしなくても伝わっている世界。

言葉以外のところで通じ合っているから、指し示す対象が曖昧であったり、言葉を省略したりしても通じることが多い。

極端な話、「大将、いつものあれで」「あれをあれしておいて」「それをああするとそうなるよね」などという、客観的にも何を示しているかわからないようなものでも通じ合っている。

察すること、空気を読み取ること、状況と環境とそれまでの人間関係を全て読み取ることによって、その空間がどのような状態かがは見てわかるようになる。

これは文脈によって意味するものが異なって聞こえるということについて、より背景を理解しているかどうかが理解のカギになるということ。





一方でローコンテクストとは、明確に指し示す対象が一つになる世界。

主語や述語、指し示す言葉が明確であり、基本的には一つの意味としてしっかりと捉えられるようになっている。

そのため、誤解が生まれにくく、ロジックが明確であることから、文章の構造やその言葉が成り立つ段取り背景を含めてとても理論的に感じる。

そして言語外の部分についてはないものとされて、すべてが言葉として表に出てくることで、想像を働かせなくてもそのアイデアがどのような背景があるのかが分かりやすい。

さらにある部分を切り取って聞いたとしても、理解がとてもされやすい状態な言葉になっていることが多い。

その結果として、様々な複雑な内容や技術など多くの発展は、ローコンテクストな言語の元でより強固に築かれてきた。







世界には多くの言語が存在するが、英語をはじめとしたしっかりと明確にモノを指し示すローコンテクストな言葉文化がスタンダードになっている。

そのおかげで、伝えたいことが明確であり、扱う対象を見えるようにすることが出来ることで、多くの人が一義的に理解するロジカル空間が成り立ってきた。

一方で、ハイコンテクストな言葉文化はスタンダードとは言えず、決して多いとは言い切れない。

言語外の意味している部分を想像するという事、その部分がより鍛えられていないと、明確に理解するということがかなり難しい。








日本は言わずもがな、ハイコンテクストな世界。

関係性によって曖昧な指示でもわかってしまう不思議な言葉体系。

だからこそ、自由に解釈できる余地もあるし、想像力も働かせやすい。

そしてこのハイコンテクストな世界は、ローコンテクスト側からすると参入障壁が非常に高い。

ひとつの場面であっても、あらゆる文脈や背景情報を駆使して、やっと理解できることが叶う世界。

だからこそ、外部の人間が本当の意味でこのハイコンテクストな文化に溶け込むことは、かなり難しい。

そして曖昧部分については、まだまだAIによる技術では完全にカバーすることが出来ていない。

だからこそ言葉としての特殊性が高く、これからもしっかりと守られていくものに違いない。

それはこの国が四方を海に囲まれて守られているように、言葉的な障壁という意味でも守られているように感じる。







日本語を扱うことが出来ること、実はそれひとつでもかなりのアドバンテージ。

ひらがなからカタカナ、漢字などを自在に用いる複雑な言葉であるのはもちろん、それ以上に文脈と想像力が問われる難しい言語であることは間違いない。

とはいえ一度ある程度マスターして使える状態にたどり着いてしまえば、どこまでも想像力を膨らませることが出来る言語。

この言葉に巡り合えて自由に扱えている日本の多くの人は、実は相当恵まれているに違いない。









ありがとうございました。

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