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認識範囲を拡大していくこと

色々な場所に行ったことがある人の世界は、とてつもなく広い。

一か所にとどまらずに、様々な空間をあちこち移動すること、そして別の国の価値観や世界観に触れることによって、自分自身が所属する世界を認識できるようになる。

様々なことを知っている人の世界は、とてつもなく深い。

勉強が得意であったり、本を沢山読んでいたりして議論などを通して深堀出来ることは、それがそのまま世界の認識を深くしていく。

物事の一流を極めた人の世界は、とてつもなく細かい。

時間を重ねて物事を何度も繰り返し経験することは、細かい違いを含めてミクロの観点から詳細な世界を認識することが出来るようになる。

このように、広さ、深さ、細かさという面で、認識のレベルが各個人で全く異なる。

同じようなものを見ていても、同じものとして目に映ることはない。

それによって認識の差異が生まれ、ある人にとってはなんでもないようなものが、ある人にとっては特別なものになっている。

たった一枚の写真からすべてを悟る人、わずか一言のニュアンスの違いからすべてを察すること、大きな物事のわずかな異変を察すること。

これらが認識できるようになることで、今まで所属していた世界が全く世界が別の物に変わってしまうこともあるかもしれない。




そもそも物事を見たり聞いたりして自分の頭の中で考えるのみでは、既存の認識出来ている範囲からでしか物事を見ることは出来ない。

見えないものを見ようとしても、そもそもその概念が存在していなければ全く認識できない。

同じ言語であっても、半分以上が知らない用語である場合は全く理解できないのと同じ。

あまりにも知らない用語が並びすぎている状態では、そもそもなにも理解することがかなわない。

時に概念として存在するものが、複数の概念が理解できて初めて理解できるようなものもあったりする。

だからこそ、理解出来た・認識できたと思いきや、全く理解に及んでいないことというものも沢山あるに違いない。

中途半端な理解で理解しきったと思うことほど、危険なことは無い。

というのもそれによって気が付かぬ間に認識がさらに難しくなることも多くあるのだから。




様々な概念ツールがあることによって、認識できるものも増えてきている。

科学という概念を通して、様々な自然現象が不思議な出来事理解できるようになってきた。

社会学という概念を通して、人々の行いや文化の違いを認識できるようになってきた。

哲学を通して、人の在り方や生き方が理解できるようになってきた。

言語を通して、多くのものが認識できるようになってきた。

ただこれらはあくまでも一つの概念から見た世界に過ぎない。

そのツールを使っても認知されないものというものはいくらでもある。

だから、「ないものはない」といったとしても、それはあくまでも既存の概念ツールを通してみた世界で存在しないと言っているのに過ぎない。

今の世界に存在しない概念を使ったら、全く別のものが見えるということは当たり前のこと。

その時になって初めて、全く見えなかったものが見えるようになる。




認識範囲を拡大するために必要なことは何か。

大前提として必要なこと、それは自分自身が認識している範囲がとてつもなく狭いことを認識すること。

そして新しい概念が現れたらなんとなく通過してしまうのではなく、しっかりと既存の概念を当てはめて理解に努めること。

そして、その概念をしっかりと正しい状態で理解すること。

一つ一つを完璧にこなすのは難しいかもしれないが、それを何度も繰り返して習慣化することで、その人の認識できる世界は拡大していく。

もちろん全ての物事に対して認識するには、100年という短い時間では全く足りない。

もしその10倍、100倍あったとしても、そもそも知ることが出来ない、認識することが出来ない世界というものは沢山ある。

知らないことすら知らない世界というものがほとんどの状態で、あっという間にタイムリミットを迎える。

だからこそ、知らないことだらけで溢れていること、訳が分からないというものが通常であり、分かることが特殊であると考えてもいいのかもしれない。

それを知ったうえで少しでも認識範囲を拡大していくことが出来れば、それはそれでとても楽しいことであるに違いない。




ありがとうございました。

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