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03. 7c 1020

『Cogito ergo sum』という看板の水色の屋根とある一軒家には大抵の場合において灯りがついていない。白い格子のついたガラス窓からこっそり中を覗いてみるととても清潔に整えられた白いテーブルクロスで皺一つなくかけられたテーブルが五席構えられていて高級感がありつつも簡素にまとめられた内装は『Cogito ergo sum』という白く大きな看板のついた店名も相まってとても近寄り難い雰囲気を一軒家のある渋谷区神山町一丁目の一軒家がある一帯に与えている。

このようにあまり近所では目立つことはないけれど、水色の屋根の一軒家は久しぶりの開店を知らせるようにしてまだ早い時間だというのに木製の立て看板も出されている。

立て看板に書かれた文字の様子からフランス料理店であることが伺える。

「開店の為に、必要な死体の数は定められた。さぁ、狩りをしよう」

宮下公園脇のトンネルでみかんの段ボールとテレビの段ボールを一週間前に持ってきたので保温性は問題なく、なにぶんこの季節であるからたとえ気温が十度を下回る真夜中であっても凍死するようなことはないだろうけれど、毛布にいたってはなかなか順番が回ってこないのでもう半年近くもそのまま日々の使用で摩耗して少し痛みが酷くなって毛羽立ってきている。

食事に関していえば、ルールさえ守ればこの街で餓死という現実的な選択を選ぶことは比較的少ないけれど、一日に一度手に入れるコンビニ弁当は恐らく最近変更された保存剤の影響か賞味期限を十日過ぎたあたりから少しだけ臭いがきつくなり、うかうかと眠り過ぎて適切な運動を欠き、ルールに悪影響を与えて順番が遅れると致命的な夜を過ごすことになってしまう。階層社会においてスピード、というよりも勘のようなものを粗末にし、今、すべきことを拒否した分の廻り道で得られる対価は長い人生においてほとんど経験してしまったし、体調や天候による変化はあるけれど、やはり、朝、目を覚まし自分が今日も生きているのだという実感を確認したならば、いつものように此処に来て、私はこの街を支配している運動の中へと身を委ねる。

一九九三年から断続的にこの街に住みついて街を支配する運動を眺めてきたけれど、ちょうど二〇〇三年を境にして、不穏で不規則なリズムが街を支配する運動の中に混ざり込むようになり、まるで都市という生命の感情機能が暴走して瞳孔に水分が過剰に供給されるような事態が稀にみうけられた。

もちろん、自分自身の経験してきたことではあるのだし、極端に患う必要もなければ、憤る力も持っていないけれど、路上生活によって解離してしまった人格を大量のショッピングバッグを抱えた金髪で肌の黒い二十代前半の女性に転移させて彼女が選択している渦の中で彼女と同じように刹那を永遠として捉える擬似体験を楽しむこともできるのだけど、そうやって廻り道をした分の対価はやはり年齢を重ねるごとに私に負荷をかけ、それはどうやら臭いの強くなった白身魚のフライを口にした時に感じる絶え間ない屈辱感のようなものとして現れてくるようで、そんな日は正直に宮下公園まであがっていき、三十五日分の垢と汚れをじっくりと丁寧に東京都によって適切な衛生状態を保たれた水道水で洗い流すことで、なんとか浄化された精神状態のまま出来る限り万全な態勢を保ち、朝を迎えられる準備をする事が出来ると考えるのだ。

今、通りすぎた三十代前半と思われるスーツ姿の男は週に二回違う女性と性行為を行い、睡眠時間を平均して四時間半とることで英気を養い、週に一時間三十三分前後だけ自分に許しているテレビ放映を享受する時間を実は本当のところでは何よりも自分が求めているのだということを世間には覆い隠して生きていることを半年に一度だけ会うセックスフレンドにだけ打ち明けている。

彼が何故か毎週火曜日の十二時十七分前後にだけこの道を通るのはこの先にあるファーストフードをどうしても食べたくなるかららしく、その浅ましさが彼の着ているスーツとネクタイの奇妙な取り合わせを産み出しているのかもしれない。

とはいえ、彼がこの場所に無意識に放り投げる火のついたままの煙草が私の一日のうちでもっとも崇高な時間へ導くきっかけを与えてくれることは確かで、その些細なはしたない欲情によって料理人として繊細さを失わないように守り続けている舌が麻痺し味覚が翻弄され、どうやらその影響から臭いのきつい白身魚のフライですら堪らなく愛おしく感じてしまうことを私は素直に認めなければいけない。

主張を控えてもなお必ず白身魚のフライの脂分を適度に補正することで体内の栄養分を平坦に保とうと努めてくれるゴボウサラダにはおそらく念入りに研究された分子ガストロミーの結晶が詰め込まれていて、少量の胡麻塩と三十年の歳月を経てどんな環境下であっても確実に適切な味と保存状態を維持している米の提供に関するコンビニエンスストア食品が積み重ねてきた技術は驚嘆に値すると言わざるを得ない。

もし、この技術の存在がなければ私の体重は恐らく後七・二キログラムほど下回り、当然のことながら体重の低下による平均体温の低下は厳冬期に与えられる深刻な環境においてより致命的な時間を体験させることになっていただろう。

だからなのか澱粉がもたらすカロリーを確実に摂取することでこの季節であっても保存剤が変更される度に味が変わってしまいかねないおぼろげな食事を一つずつ丁寧にもはや毎日のように定数を消費されるだけの物質と成り果てた木製の割り箸の先で一日に一度の貴重な時間を秒たりとも逃すことはないのだと奥歯で噛み締めた米粒に伝えている。

「カメラハックかんりょう!」

「術式感知型GPSも問題なし!」

「当然ながらWIFIテストも良好!」

「──これでこの街はボスの魔の手から逃げられないぜ!『ゼツ』のやろう後悔させてやる! ──」

おそらくこの街を支配する運動に加えられた不規則なリズムが適切な時間へと補正する慣性運動によって都市全体の道路交通量の過剰を緩和させようと動き回っているようで、午後二時頃からアスファルトに偶然与えられる日陰を少しだけダンゴムシが歩き回り、私に非常用のタンパク源を提供しようとする街の意志のようなものをあざとく拾い集めさせようとするあたりに、私が長きに渡ってあの店を経営している因子のようなものを私は自らで垣間見ることができた。

『飼育環境のよい大脳新皮質』、脂分の適切な背筋、徹底的に管理され保護されている肺泡、瞳孔の機能が生物学上の使用を逸脱していない眼球(特に利き目ではないほうが望ましい)、そして恐らく死後三十分まで生体と遜色ない働きをする新鮮な心臓、今回提供する予定の『plat principal』に乗せる食材を私が地元であるこの街に決めたのはこれらの食材がこの街で見つけられる稀有性に加えて恐らくは今現在確かに確認されるこの街を支配する運動の不規則性を少量の香料として加えたかったからに他ならない。

もちろん、それは私が四十五年続けてきたシェフとしての勘が確実にこの運動の流れの中に先ほどあげた食材が現れるという確信を与えてくれるからではあるけれど、宮下公園脇のこのトンネルを選んだ理由は、先週とても珍しいことに朝起きる時間が二十六分遅れてしまい、恐らくこのままでは臭いのきつい白身魚どころか仲間内の誰かが保存食として隠し持っていた賞味期限三十日前後のおにぎりを、媚びを売りがめつくありつかなければいけないと焦りを覚え、反対側の宮益坂方面で二四六号沿いを歩いていたダブダブのニッカポッカの裾を泥だらけにして、粗末な服装であることをとくに気にすることもなく歌がもたらす精神作用を十二分に楽しんでいた酷い皮膚病に侵された男性がもっていた金属片から得た神託によって私を後押ししてくれたからであると説明しなければならない。

彼が手にしていた金属片は恐らく二〇二〇年九月に完成予定の十二階建て鉄骨造コンクリート仕立てのビルディングから産み出された不要物であると推測され、私はフランスに一介の料理人として立つ前の自宅のテレビの前で母親と見ていたテレビに映った殺人事件のニュースにあったとても怪奇な現象に巻き込まれた親子の結末を内包していた借家の脇に移っていた金属片に酷似していることを思い出して、それは金属バットが頭部を叩き割る時に発する音は祖母が台所でゴミを拾う時にそっくりだと母親が口走った夜に祖母から頬に突き立てられた包丁の刃先の冷たさによって私は料理人になる決意をしたことに起因している。

祖母が私に伝えた金属バットで憎しみをぶつけた男があるべき正しい座標がずれることで彼自身もまたそういった歪みのようなものの被害を受けたのだというメッセージは、偶発的な事故で脳挫傷を起こし緊急搬送された入院先で私がフランスへと旅立つ直前で私自身と一瞬足りとも目を離すことなく心停止した祖母の意志によるものだと私はボロボロの作業着を着た彼の持っていた金属片をみて再度思い知らされることになったからだ。

「ゆえに私は私自身の記憶を思うが故に私であり続ける」

食事にまつわる呪いにも似た欲求は恐らく私たち人間の全てが抱えている原罪のようなものであるのだとするならば、子羊や牛や鴨といった一般的な食材ではなく、ヒトそのものを選びとっている理由は、私が全身全霊を持って私が作り出す食事に内在されるべきは今ゲストが手に入れようとする商品の対価の崇高なる味を至高の時間と環境をもってして体験するべきだと考えているからだ。

そして、一人の人間に僅か二十一グラムしか存在し得ない希少部位を彼が見てきた風景、聞いてきた言葉、感じてきた快感、そして発動し得た感情によって誘発された細胞の変化を食材と同時に或いは適切な流れの中で感じさせるという行為自体が、彼もしくは彼女が感じ取っている原罪を洗い流すはずだと信じているからだ。

けれど、私は私自身が食材を手にするべき時に感じている有意義な情動系の暴走によって無限への誘惑を募らせて包丁の刃先がほんの少しだけ零れたという事実にすら敏感に反応する本能的直感を決して濁らせることのないように私は自分自身で路上生活者を選択し、提供すべき『plat principal』に乗せるべき食材を自身で選び狩り取っている。

「今回の食材は全て筒がなく狩り取ることが出来た。感謝する」

十八時を廻り、立て看板に本日のメニューがシュールメジュールである事を白いチョークで書き出し、開店の準備に全く問題がないことを再度確認すると、ガラス窓のついた木製の扉にかけられてCLOSEと書かれた小さな表札を裏返し、OPENに変え、ちょうど1ヶ月前に適切な食材を手に入れてゲストが来店した時とまったく変わらない店内をゆっくりと見渡す。

私が雇う給士はたった一人だけでフランスにいた時からの古い付き合いで友人でもある絢辻冬里氏に開店の際だけ特別に依頼をしている。

私がこの店を始める際には全く反対などせずに、私が選ぶであろうということを予測して彼が自身で保管していたぼくら二人がまともな

『Cuisine』すら見たことがなかった当時に、一九七五年製のワインを何も言わず手渡してくれた。

恐らくぼくが『plat principal』に選ぶ食材が特別な食材であることも加味して彼が彼の人生を賭けて選んだ知識と経験を総動員して選んでくれたものに他ならず、彼はその日以来私がどのようなタイミングで店を開けるのだとしても必ず給士として駆けつけ、その日のメニューに見合ったワインを必ず持参してきてくれるのだ。

そんな絢辻に十八時二十分には最初のお客様がいらっしゃることを告げ、ぼくは真新しいコック服に不備がないことを再度確認した後にコック帽を被り、『Cuisine』へと向かう。

「お爺様はやはり来られないそうだ。ぼくら二人だけで特に問題はないよね?」

灰色の半ズボンのタキシードに身を包みながら、スケートボードを軽やかに乗り回す渚にちょっとだけ警告を促すようにしてカヲルは彼をたしなめる。

「招かざる客であることは確かだね、お兄ちゃん。けれど、少なくともマナーに関してだけ言えばぼくら二人が敬遠される理由は全くないよ」

オーチャードロード沿いを歩きながら空を見上げて羽根をめいっぱい拡げて監視している梟型AI『キリコ』の姿を目に捉え、赤い蝶ネクタイをつけて黒いタキシードを着たカヲルを勢いよく漕いだスケートボードで追い抜かす渚をみて溜息をつく。

「本当にその可変機構を組み込んだ『N.O.』まで持っていく気かい?」

暗に他のお客様に迷惑だろうと言いたげなカヲルを鼻で笑いながらその場でヒールフリップを決めた渚はくるりとターンしてカヲルの顔を覗き込む。

「和人がまたいくつか実験をしているんだ。ぼくらだってあの馬鹿どもに付き合わない手はないだろう。お兄ちゃん、いや、アニキだってそのつもりでまだ真夜中でもないのに梟を引き連れて歩いているんだろ」

バックサイドターンの後、続けざまにキックフリップを決めた際に見えた『『Lunaheim.co』』の筆記体のピンク色のロゴを見てカヲルは珍しく笑顔を零し何度も頷いている。

「和人はともかく『アースガルズ』の悪巧みには稔も困っているはずだ。実験台の『ぷるぷる』は先月5㎏痩せていたらしい。どちらにせよ悪意の暴走は既定路線、お爺様の決めたことだ」

急ブレーキをかけ、スケートボードを掴み取ると渚は少しだけ悲しい顔をする。

「アニキはDNAの問題にこだわりすぎだ。パパはきっとこの宇宙への干渉を辞める。ママは新しい操縦士に役目を追われるはずだ。ぼくらはもう自由なんだよ」

さっき渚から手渡されたばかりのグリモワールを右手にかざしてカヲルは少しだけ真面目な顔をする。

「だからこそだよ、渚。だからこそ、ぼくらだけで身を守る術を考える必要があるんだ」

力強く語気を強めるカヲルを見て、彼の姿などまるで目に入っていないように背中越しに誰もいない空間に向かって渚が呟く。

「キミがもう少し賢かったらよかったのに」

渚の目に溜めた涙はほんの少しだけで、きっと上空一千メートル程度では髪の毛の数すら数えられる『キリコ』の高性能カメラですら彼の流す涙の意味までは捉えられなかったかもしれない。

水色の屋根を見つけて立て看板のメニューを眺める渚はぐぅーっとなるお腹の音を誤魔化すようにして青色のガラス格子の扉を開け、『Cogito ergo sum』の店内へと入り、後に続くようにしてカヲルも彼が食すべき出会いを堪能する時間へと侵入する。

「いらっしゃいませ。東條様ですね。こちらへどうぞ」

混じり気のない白髪をオールバックに固めた百八十センチほどの男性がとても綺麗に整えられたタキシードスーツに身を包み、今年小学校六年生になったばかりの東條カヲルと東條渚をなんのきらいもなく出迎えられると、絢辻冬里の後をついてUGEPA製の色とりどりの薔薇の描かれた壁紙で囲まれた店内へと入る。

入り口のクロークで渚は可変構造を内蔵したスケボー『N.O.』を預けるとそのまま店内奥へと入り込んでいく。

中を覗くと正面の壁には『ドラクロア=ダンテの小舟』が見えて、西洋美術に比較的惹かれることが多いカヲルがまさか本物に出会えるとは思わずに一瞬だけ立ち止まり、小学生らしくない斜に構えた美術眼を発揮している様子を渚はほとんど無視をして絢辻冬理に引かれるまま店内右奥の白くとても清潔なテーブルクロスの上にフォークとナイフが丁寧に並べられた丸いテーブルへと案内される。

カヲルが事前に予約が二名だと伝えていたにも関わらず三席分が用意されていたことに関して特に渚は不満を言うこともなく手前の席に座りよくわからない片目が不自由な老婆の絵がまるでこちらを見つめているような気がしてとても不愉快な店だなと脚をふらふらさせてわざとマナーという慣習そのものを壊すようにしてカヲルを待っている。

カヲルは渚の意図的で不躾な態度に流されることなく礼儀正しく店内一番奥の席に座り、絢辻にオレンジジュースをオードブルの前に欲しいと可愛らしく注文をする。

「渚はいつもそうやってみんなと違うふりをする。場に合わせた形を作ることは大切なことだよ」

「ふん。ここはもうぼくたちの場だろ。それに予約したメニューにそぐわないとも思わない」

「まあ、いいさ。きっとそれが僕らの形だというのならば問題はない。ところで、『御上玖流羽』についてカヲルはどの程度知っている?」

「『飼育環境のよい大脳新皮質』。飼育という言葉の定義だけでも曖昧だ。人間は支配階級によって飼育されている、なんていう頭の悪いクラスメイトみたいな答えが返ってくるのならぼくは今すぐ近所の食堂ですき焼き定食を食べにいくね」

「君のいうとおり、ペットや動物園の動物を連想させる。単純で強烈な印象を与える言葉だ。人間に自由意志がどの程度許されているのかは現代社会において確かにとても重要な課題の一つだね」

話に夢中でいつのまにか置かれていたワイングラスに入っていたオレンジジュースがテーブルの上に置かれていたことに気付き、クイッと一口だけ飲む。

「自由意志の問題か。ヒールフィリップで宙に浮いている時は自由だろうか、重力に支配されているだろうか」

「重力が神によってもたらされた物理法則であるのならば我々は神に飼育されていると人は言うだろうね」

レバーパテと小さく切られたパンがオードブルとして運ばれテーブルに置かれると渚はマナーなど構わずそのまま口に放り込む。

「メインディッシュ以外に食材を使用されているのかな。これはきちんとぼくの食べた事がある動物の肝臓の味。もしそうだとしてもぼくは見分けがつかないかもしれない」

「多分違うんじゃないかな。よく飼育された鴨の味を濃厚に感じることは出来る。今日でフレンチを食べるのは三度目だけど、確かに此処は扱う食材が特別なことはさておき味も問題なく格別だね」

とてもお行儀よくパンを口にして、カヲルはパテの味を舌先できちんと味わいながら一つずつ丁寧に消化していく。

「けどなぜ青髭は前菜には、別の生き物の肝臓を使うのかな」

「なぜってもし『御上玖流羽』を食べに来ているのだとしたら、ぼくらは肝臓を食べるべきではないだろう。彼の生活に最も影響を与え特異性を発揮していたのは脳であるといえるだろうしね」

「あー。もーせっかく美味い食事をしに来ているのに、アニキはすぐ頭を硬くするね。確かにレバーパテは今のアニキには必要な栄養素だ」

渚とカヲルの会話はそんな風にしてまだ七時を回る前の二人しかいない店内を彩るBGMのように静かにけれど、二人だけの時間をゆっくり堪能するために作られたように進められていく。

十五平米ほどの客席には、二人の席以外には、窓際に二席、入り口近くにもう一席、そして中央の丸テーブルにはとても鮮やかなピンク色の牡丹と咲耶姫が備前焼の下部に白い焼き残しの見られる舟徳利花入に出来るだけ寄り添わないように注意深く活けられている。

暗めの照明の中で一際浮き出ている活花にカヲルはちょっとだけ目を奪われる。

「いらっしゃいませ、芹沢様ですね」

入り口から絢辻冬里の渋く太い声がして、しばらくすると店内に十字架の刺繍の入った黒い眼帯をつけた細身の女性が、黒いスパンコールジャッケットと黒い七分丈のパンツルックに黒いハイヒール姿で音を立てながら入ってくると窓際の手前の席に案内され席につく。

おそらく少し早めに着いてしまったのか、どうやら予約されたテーブル席には一人で座って待っているらしい。

カヲルは彼女の奇妙な雰囲気の姿に目を奪われていたことに気付いてすぐに渚に視線を戻す。

空豆の冷製ポタージュが渚とカヲルのテーブル席に運ばれてくる頃には、彼ら二人はすっかり子供の顔に戻り、少しだけ背伸びをしていたカヲルを連れ戻そうとしていた渚がようやく求めていた時間が現れたという事実をスプーンでゆっくり掬い取り、喉を癒すようにして二人はスープを口に運び、そうしてまた『御上玖流羽』の特異な生活環境に関する話題に渚が話を戻す。

「けど、お兄ちゃん。やっぱり何故今日のお肉が『飼育環境のよい大脳新皮質』であるのかが考えてもわかんないや」

「それはたぶん彼の人生そのものに特徴があったからだと思う」

「というと?」

「つまり彼は生涯を通じて一度も活版印刷による書物に触れたことがない、識字能力に著しい偏りが見られたんだ、文盲といってもいい。当然ながら学校にすら通っていない」

「へー。けれど、親や家族に何らかの教育は受けていたんだろう?」

「いや、残念ながら天涯孤独のうちに、とても質素な部屋で育ち、生活を続けたんだ」

「まるで誰かの仕組んだ悪戯のように彼はその完全な密室で過ごしたと」

「そうさ。幼少期に母親の元から引き剥がされるように誘拐されて犯人によって監禁されていたんだ」

「では親からの教育も基礎教育すらも受けられずに彼はどうやって他者、つまり犯人と思しき人物とコミュニケーションを取る方法を学んだのだい?」

「テレビだよ。彼は地上波のテレビ放送のみで言語を習得したんだ。とても珍しい脳構造だったらしい」

「では彼が実際に生涯を終える三十二歳まで一切の間、活版印刷による文字というものを見た事がなかったんだね」

「そして人生最後の日彼は青髭に手渡され、テレビ放送による発光した言語と犯人の僅かな吐息のみで記憶野を形成していった証拠を提示したんだ」

「つまり暗闇の中で光り続けるブラウン管モニターだけが彼の生涯の話し相手だった。そういうことかな」

入り口のほうからまた声が聞こえて七分丈のAラインの黒いワンピースと銀色の蛇が緑色の目を光らせるブレスレットを左手に巻き、白いリボンのついた黒いハイヒールを履いて、髪の毛を後ろで縛り首筋に小さな『蜂』の刺青の入った女性が店内に現れる。

窓際の手前の席の女性に向かって手を振って、待ち合わせの時間に遅れずに来たけれど、相変わらず自分より早く到着している黒い眼帯の女性に向かって好意的な嫌悪感を露わにした表情のまま『蜂』の刺青の入った女性は入り口側の席に着席し話し出す。左手を白いテーブルクロスの上に『蜂』が音も立てずにこっそり忍ばせる。

「なぜあなたはいつもそうやって私に少しでも罪悪感を植え付けようとするのかしら」

白い陶器のスープ皿に残った薄い緑色のポタージュを小さく切り分けられたパンで拭い取りながら口に運び、カヲルは質問に応える。

「例えば、渚の席をじっと伺っているセリンティーヌ。彼女をこの額縁の中に閉じ込めるようにして青髭は五十キロ前後の『御上玖流羽』の身体から二十一グラムの適切な箇所の大脳新皮質を取り除いて慎重に調理したものを提供してくれるんだ。けど、その前にポワソンだ。オレンジジュースにするかい?」

味に影響を与えるはずの飲み物をきっと渚は気にしたりしないだろうとカヲルは自分が飲むミネラルウオーターではなくオレンジジュースを勧める。

「いいよ、ぼくもお水で。あのお爺さんにお願いしたら、大人の飲み物も出してくれるかな?」

「どうだろう。たぶん渚が『N.O.』を置き去りにして渋谷で路上生活を始める羽目になるだけなのじゃないかな」

「うーん、まあ。そんな気がする。ムルソーなら次に出てくる玩具箱にはぴったりな気がするな」

一口だけ水を含んで空豆のポタージュの味を流して気まずい顔をするカヲル。

渚がニヤつき始める。

「そういえば、兄貴はあまり深夜にテレビを見たがらないね」

「というより、ぼくは零時以降起きているのは用がある時だけかな。あまり必要だとは思わなくなったのかな」

「うんにゃ。そうじゃない。アニキは壊れるのが怖いのだ。だってもっと見たい世界はあるだろ?夜しか見えない場所のことさ」

テーブルに運ばれてきた『鮑のステーキ 肝のソース和え』はとてもシンプルに鮑に焼き目をいれた濃厚さが見ただけでも伝わる料理で確かにムルソーなんていうぼくたちの時間を早回しした飲みものがテーブルの上にあれば、ぴったりかもしれないとカヲルはちょっとだけ口元を緩める。

「『御上玖流羽』は夜のことを知ることが出来たのかな。珍しい構造というのは若く劣化を知らないという意味に捉えることも出来るね。発光するブラックボックスによる言語の習得の影響なのか定かではないけれど、ある一定の年齢にも関わらず脳髄に劣化も摩耗も見られなかったということをもう少し踏み込んで考える問題なのかもしれない」

カチャリとわざとらしく白い皿にナイフを当てて威嚇する渚にカヲルは動じる様子もない。

「そうだね。暗闇では本を読むことすら出来ない。まるで今の場違いなぼくたちみたいだ」

「弱気になるのは珍しいね。なら渚も食べてみるといい。肝のソースの口当りが絶妙だ。鮑自体の味を全く壊していない。確かに君の言う通り水では物足りないね」

もしかしたら、カヲルと同じようにどこか内緒の場所で渚は白く光沢のある香りの飲み物を口にして、液体と個体が引き起こすマリアージュを経験したことがあるのかもしれない。

「ぼくには黙って食事をしなさいと言われているように聞こえる」

「意地悪ではなく食べるということを考えるべきだと伝えてきているんだ」

「それでもぼくにはちょっとだけ重いかもしれない。だって」

「有界な状態を維持し続けている弟を咎めるべきか否かってことかな」

カヲルが渚に何かを伝えようとした時に、フォークとナイフを皿に置き、空いている真ん中の席を向き、少しだけ怒って渚は、伝える

「行儀よくしろと言っただろ。ぼくらは兄弟なんだ。十三、君は少しアニキに意地悪過ぎ」

『パブロ ピカソ=セリンティーヌ』がガタリという音を立てて壁から片方だけ外れる。天井のシャンデリアからパチリと音がして暗闇と灯りが交互に訪れる。

左奥の席の女性からとても小さな喘ぎ声が漏れる。

テーブルの端に置かれた渚のワイングラスがぐらりと傾いて床に落ちそうになる。偶然そこにいた絢辻冬里がワイングラスを受け止める。

ぴしゃりと少しだけ溢れたミネラルウォーターが床の上で跳ねる。

カヲルがカチャッと静かにフォークを皿に当てる。

形而上に存在する写像が実像を結び始めていく。

「たぶん、三ヶ月ぶりかしら。会うとあなたはいつも短くて小さな声で喘ぐ」

芹沢美沙は履いていた灰色のリボンのついた黒いハイヒールをこっそりテーブルの下で脱ぎ捨てると、黒いストッキングのままで爪先を『蜂』の刺青が首元に入った女のChristian Diorの黒いワンピースの裾をめくりあげ太腿に這わせるようにしながら悪戯をして簡単な刺激を与える。

『蜂』から小さく堪えた声が漏れるけれど、彼女は用意された白い葡萄酒にちょっとだけ口をつけた後にはっきりとした口調でやり返す。

「私はもっと長く感じた。一日たりとも我慢をすることが出来ないって気が狂いそうだった」

シャンデリアから微かに溢れる電流の接触音に『蜂』の小さな耳が反応している。

遠くの道でヘッドライトを点けたセダンの灯りが店内にちょっとだけ入り込もうとして芹沢美沙に影を落とす。

コツコツとセリンティーヌを水平に戻した絢辻冬里の革靴が静まり返った店内に響く。

カチャン、コプリとワイングラス同士が触れ、白い光沢を維持した液体が微かに揺れる。

「静寂を揺れ動く液体に感じ取るからこそあなたは非存在を聞き取れるのかしら」

「わからない。待っていることと日常を切断したいだけなのかもしれない」

丁寧にアボガドに巻かれたピンク色の鮭をフォークで刺して芹沢美沙は、テーブル越しの蜂の口元にゆっくりと近付ける。

ちょっとだけ口元を開けた蜂の舌先がとても静かな速度で向かってくるフォークの刃先を絡め取ろうとして、うっかり舌先を出してピンク色の魚にかけられた金色の液体が訪れるのを待ち望んでしまう。

「お行儀が本当に悪い。濡れた舌先のことなんて何も考えていない顔をしている」

少しだけ滑り気を帯びた唇を真っ白なナプキンで拭き取ると深い溜息をついて蜂は呼吸を整える。

「あなたには樹々のざわめきが聞こえない。包丁が柔らかな部位を〇.一ミリ単位で削ぎ落とす摩擦音を感じ取れない。あなたの吐息と脈拍が少しだけずれた時の鼓膜の震える快楽を伝えるのは本当に難しい」

ミュスカデを舌先でゆっくり転がしている芹沢美沙は右眼の黒目をちょっとだけ斜め上に傾けてチューニングが二セントだけずれた光の擦れる音を軽く修正する。

「一緒に食事をする時はいつだってオードブルからあなたはちょっとだけ頬を染めて喜んでくれる。まだこんなに早い時間なのに」

ぐっと身を乗り出して上唇を軽く下唇で噛んで芹沢美沙は蜂の入った首筋をじっと見つめている。意地悪なやり取りを重ねた二人が仲直りをするようにして笑顔を溢して甘い時間の始まりを堪能しようとする。

「カカオの味がここまできちんと活かされているソルベはとても良い思い出になりそう。素晴らしい夜だね、渚」

はしたなく口元をチョコレートソルベで汚している渚はぺろりと舌なめずりをして丁寧にカカオ豆の味を感じ取る。

「チョコレートは甘ければ甘いほど美味しい。当たり前のことだけど、ぼくらはすぐ忘れてしまう」

例えば、今、どこかの黒人奴隷が激昂する主人にきつく重い革の鞭の痛みを剥き出しになった背中で思い知らされてバチンッと弾く音が耳元で聞こえた時に、もしこのアイスクリームを差し出したら彼は神の存在を感じ、涙を流して感謝の言葉を述べるだろう。

「さて、メインディッシュがそろそろ到着をする。印刷革命によってもたらされた黒いインキの力は人類に知恵と力を与えた。二五六色の光によってのみ情報認識を脳内に蓄えた『御上玖流羽』の大脳新皮質はどんな味だろう」

「革命は常に本を焼かれないために実行されたんだ。グリモワールに記された六五五三七の術式を1つ残らず記憶しよう。──メディアはマッサージであり続ける必要がある──」

渚とカヲルの座っているテーブルの上のカカオ豆が丁寧に濾しとられた茶色いソースの白い皿が片付けられると、皿の上で処刑を実行された大脳新皮質が三センチ四方に切り取られ、蓮の花をイメージして極薄の肉片が盛り付けられて、最高純度の調和を完成させるために青髭の技術の粋が詰め込まれたデミグラスソースが皿の上をジグザクに行き来して描かれて、その脇に茹でたブロッコリーと人参のグラッセが飾られている。

丁寧に優しく反射する光ではなく強烈な個性を伝える為に発信する光によってイメージを転写し続けた脳味噌の覚えていた光を一口ずつ渚とカヲルはフォークとナイフで口元に運んでいく。

ブロッコリーと人参を時折挟んで、出会いという転換を味わうことなく偶然鍵の掛けられていなかったその夜に青髭によって狩り取られ三十二歳で生涯を終えたにも関わらず十六歳の脳の発育状態を維持していたという『御上玖流羽』の味が渋谷の街に訪れている激的な事件と事象のことを詳細に渚とカヲルに伝えてくれる。

彼らはこれから巻き起こる小さな物語と大きな物語が絡みあって融合していく様子の始まりと終わりを偶然にもテレビメディアの発信する周波数によって大脳新皮質に蓄えていた『御上玖流羽』の処刑を断行した罪を口元から胃袋の中に運ぶことで、もしかしたら、封じ込められてしまった三つ目の目の代わりを見つける事が出来るかもしれない。

「そうね。あなたは光を扱う。私にはそれがとても妬ましい」

芹沢美沙が黒い眼帯を少しだけずらして、偽物の水晶体に映った蜂の刺青を見て嫉妬心を浅ましく見せようとする『蜂』に向かって予言が始まり出している事を伝えようとする。

「だからあなたはいつも騙される。こんな時に目を閉じてしまうからあなたはいつも琥珀色の振動に支配される」

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