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「ねぇ、私のことちゃんと覚えてた? 顔忘れちゃったとか言わないよね? あのさ、とりあえず部屋に上がってもいい? 忘れ物わざと。だって君さ、人に興味なさそうじゃん。だめだよ、そういうの。手帳はさ、女にとっては結構大切なものなんだよ」
 翌日の夜、アルバイト先から帰ってシャワーを浴びて着替えを済ませたタイミングでスマートフォンの着信音が鳴る。新宿で待ち合わせをした方が都合が良いのではと提案したけれど、仕事が何時に終わるか分からないので最寄駅で待ち合わせをしようと返された。彼女の強引さは一ヶ月前と何も変わっていない。深夜のクラブで意気投合してホテルに泊まったのも彼女からの誘いがなければ成立していなかっただろう。目が覚めた時に彼女の姿がなくベッドサイドに置かれていた本革の手帳が彼女のものだと気付いてバッグの中にしまった。けれど、Lineを交換していたことに思い出したのは一昨日の夕方に連絡が来た時で、射精を済ませてぼんやりとした頭でなんとなく彼女の話をベッドで聞きながらまだ醒めきっていない酔いの最中彼女はぼくの夢の話を聞いてどうやら興味を持ったことになんとか記憶の底から引き摺り出す。
「誰にも嫌われたくない。愛されたいとか永遠を誓い合うことを求めることに疲れているのかもしれない。たった一人だけで十分だと思うには歳を重ねすぎているし、忘れることの出来ない関係だって当然ながら存在している。けど、そいつはファンタジーってやつで未来には置き換わってくれない。脳味噌に必然として記憶されているけれど、偶然だけは産んだりしないんだ。二度と手に入らないものばかり捨ててきたけれど、ぼくは今の自分が多分好きなんだ。だからぼくは他の誰かに嫌われるようなことが耐えられない。信じることを強要されているみたいで嫌なんだ。こんな時でもなければ打ち明けないだろうけど、裸になってしまえば確かに嘘は必要がなくなる。本当のことは言いたくない。ぼくはただ絵を描いていたいんだ」
 駅前のMr・Hippoって喫茶店に案内する時に悠亜からその話をされたので、21時で店が閉まることだけを伝えてから彼女のつまらなそうな表情の裏側を読み取ろうとする。夢が見られないのなら眠るのを辞めればいいじゃないかと思わず口に出してしまいそうになるけれど、彼女の無愛想な態度を見てLineを交換していたことを忘れてしまった理由に気付いて財布に入っていた千円札で彼女のコーヒー代を奢る。まぁ、アルバイトの収入までが入るのは来月だけれど、一人分の食事には困らない。何も媚びる必要はないとだけ言い訳を作り自分自身を納得させる。席に座り向かい合い、お互いの表情を確認する。
「──それで、私が来た理由をわかっているのかどうかだけ聞きたい。だって不公平じゃない? なんとなくだけどさ」
「忘れていた手帳。まあ、中身は見てないよ。それと、確かあの夜話したと思うけど、この絵本は駅まで来てくれたお礼。残酷な話のものは珍しい。子供向けを想定しているのならゴーリーは異常者だけれど、彼はとてもシャイで、友好的な人柄だったらしい。実際の殺人事件を基に描かれている。殺された子供は全部で五人。犯人の二人はとても不幸で誰からも同情されるような人間ではなかった。大人が読めばもしかしたら救いに似た感情を見つけるかもしれない」
 手帳を受け取って青い紙袋に入れた「おぞましい二人」を受け取った悠亜はひどく退屈そうに返事をしてスマートフォンの画面に夢中になっている。ぼくに興味がある理由は絵本の中で描かれていて、確かに彼女は年下だけれど大人の女性でエドワードゴーリーの説話を正面から受け取るだけの時間も余裕もなさそうだ。ぼくが切り離してしまった世界から時を超えてやってきたのだとしたらお互いに無駄な時間を共有している。コーヒーの味が気に入ったらしく彼女は機嫌を取り戻して口を開く。
「ごめん。ちょっと最近始めたバイトがあってさ。エンデリって言うんだけど、知ってる? マッチングアプリに登録して目当てになりそうな男の人がいたら見つけて会う約束をするんだ。けど、待ち合わせ場所に行くのは当然ながら私じゃない。そもそも都内の人と連絡を取り合うわけでもないしね。ま、大概は風俗嬢の女の子で、サイトに登録した写真とは違う女が待ち合わせにはやってくる。私は事前にメールで条件を確認し合うの。ホテルに行ってどれくらいの金額でやりたいことが出来るかどうか伝えて男の人にOKしてもらう。密室で受け取ったお金の一部を私が業者から貰うけど、大体一件成立すると四千円ぐらい。マッチングアプリには今すぐヤリたい男がわんさかいるから客には正直言って困らない。エグめからサッパリ系までなんでもござれ。すっぽかしや勘ぐりはままあるけど、結構ヒット率高くてさ。本職の合間にやるにはぴったりなんだ。お小遣いぐらいはすぐ稼げちゃう。知ってる? こういうの」
「へぇ。ぼくも今は時間潰しのアルバイトをしてる。出会い系サイトで女のフリをして男とメールをする。会いたいだとかセックスをしたいってメッセージは届くけれど、出来るだけやんわりと傷つかないように断りのメールを入れて会話を長続きさせる。一通大体300円程度で、ポイント制だ。返事が出せなくなった頃合いを見て会いたいとだけアピールをする。いくら焦らされても我慢強く彼らは耐えている。もちろん顔写真云々ではなくて、約束は永遠に叶えられない。君のしているアルバイトとは多少事情が違うみたいだね」
「へぇ。やっぱり見た目の通りなんだ、君みたいなやつは。何を言っても私じゃないって言う。悪いけどさ、私は合わせるのが得意なんだよ。だって不平不満なんて馬鹿らしいでしょ。だから、うーんと。あー。よくわかんないだけど」
 ぼくはアイスコーヒーをストローで呑んで彼女の苛立ちの原因を探ろうとする。まだ何か特別なことにこだわっている。離れられない理由はわかっている。絵を描くことだ。シンプルな答えのことを否定している自分に嫌悪感を抱くべきだろうか。彼女が汚らしい? そうじゃない。けど、どうやら彼女はアイスコーヒーの味を気に入っている。半分ほど呑んでしまったグラスには手をつけず窓の外を眺めて悲しそうな表情をしている。
「どう伝えたらいいのかはわからないから絵本にしたんだ。初めて会った時にはよくわからなくて。ありのままが嫌だったのかな。怖かったのかもしれない」
「だからか。それなら手帳は返してもらうでいいよ。興味を持ってくれると思ってた。信じてたんだ。私は私の人生のことを。裏切られるとは思わなくて」
「君はあの場所でぼくと会うことを知っていたみたいな顔をしていた。訪れるってわかっている危険に行儀よく対応してマナーを破る契りは拒んでいた。だから、ぼくは君の願い事を叶えている」
「アホらし。セックスしている時、気持ち良かったからそれでいいんじゃない?」
「奪われた理由が知りたいのはぼくじゃない」
「あぁ。本当だ。家にも誘わない。理由があるんだ。わざわざ電車に乗ってきたのにな」
「お腹は空いている? 何か食べにでも行こうか。事情は後で話すよ」
「まぁ、そりゃそうだ。私はパスタとかがいいかな。魚料理は無理。それで君は?」
「じゃあ居酒屋にしよう。何せ一応は失業中なんだ。やりたいことをやるのにはお金がかかる」
「言い訳か。いや、それなら尚更いい。私も半分出すよ。君のせいじゃないのはわかってあげられる」
 ぼくが手渡した青い紙袋を一瞥してから彼女はハンドバッグに茶色い手帳と一緒にしまってしまうと、半分だけ残したアイスコーヒにはそれ以上口をつけずに立ち上がり二人分のコーヒー代を支払にレジまで向かう。スマートフォンをポケットにしまい、手放してしまったのは夢なのか希望なのかなんてことを考えながら彼女の後を追い、二人でMr・Hippoって喫茶店を後にする。この街に住み始めてから一人で居酒屋のような場所に立ち寄る機会もなかったけれど、日中に散歩している時に見つけた店に心当たりがあるので北口へと向かい、自然と手を繋いで夜が来て賑やかになってきた駅前通りを歩きながら他愛もない会話をする。償いを考えているうちに行き場がなくなってしまったので、差し当たり必要なものを数えてみるけれど、思い当たる節がない。お財布の中に五千円札は一枚だけ入っていたけれど、十分に腹を満たせる金額ではないだろう。理由がわからないので絵を描いていたことに差し出がましく言葉を並べる気にもならないので、右隣を歩いている大谷優亞にキスをする。唐突に、さりげなく、出来る限りの静寂が訪れるように口を塞ぐ。口紅をつけた唇に触れる感触は一ヶ月前に味わった時と同じで覆い隠していた感情が粘性を帯びた唾液と混ざりあう直前で許しを与えてくれるような気がして救われたと感じている。けれど、雑踏を行き交う人々の話し声が気になり、舌先を絡め合った瞬間のコーヒーの味から引き剥がされるようにしてお互いに思った通りの距離を築いて3・6・5酒場という大衆居酒屋へと足を運ぶ。
「から揚げとか餃子だとかが店の前を通ると旨そうだなと思ってさ。此処でいいかな」
「あぁ、まぁいいんだけど、どうしてキスをしたの? しかもこんな路上で。みんなの見ている前で。なんかそういう気持ちって人に見せびらかすようなものじゃない気がする」
「あはは。そういう気持ちか。まあ、なんだろう。衝動的に。けど、お腹が空いているんだ。せっかくだから食事をしよう。話をした方がいいってことかな」
「それでキス? あー全然わかんない。盛り上がってホテル行ってセックスしてさようならじゃないんだ? 私の気持ちは届いてないってことになるね」
「どうだろう。エドワードゴーリーって人は何が言いたかったんだろうね。残酷に子供を殺してしまう不幸な夫婦のことを誰も忘れないでという意味なのかな」
 店員に案内されて二人用の席に座り、メニューを眺めてまずはお互いに生ビールを注文する。鉄鍋餃子と麻婆豆腐、豚角煮と長芋の黒酢餡、肉刺し盛り、それから冷やしトマトと明太ポテトサラダ。思いつくままに注文して財布の中身が心配になったところで勘付かれる。ぼくのしたいことと彼女のしてみたいことに差があるのかもしれない。自己顕示欲って言葉があり、主張だらけのモラトリアムみたいな人種のことを疎んでいるのが大人だとすれば、さっきのキスはそういう関係の流儀みたいなものだ。どちらが成熟しているのかを競い合って利用する。まるで子供同士の喧嘩だ。それでも、ぼくらは他人に心を掻き乱されることにどこかで抗っている。感情を曝け出さない瞬間だけが心の平穏を保ってくれている。
「よく食べるね。なんか仕事してない人ってさ、もう少し余裕がないやつが多いじゃん。君は初めて会った時もそうだけど、なんでそんなに不満がなさそうのかな。私の方が子供みたいじゃん」
「さっきも言ったけどアルバイト程度はしているよ。あの時も、まぁ、そうだ。いい歳をしてって言われたら流石に何も言い返せないけどさ」
「うん。私は一応さっきのやつは暇潰し。ちゃんとOLやれてるし、嘘も方便っていうかそつなく生きている。ねぇ、ずっとそんな暮らし? 絵を描いているってそれで有名になりたいの?」
「半年前までは広告代理店にいたよ。上司と揉めて離職したんだ。なんでそんなことをしたんだろうって理由がまだ自分でもわからなくて誰にも会わないで絵をただ描いている。無意味だと知った瞬間に何もかも嫌になるのならぼくがただ間違っただけで、後戻りも出来ない」
「えー。なんでそんな話を私にするの。しかもこんな居酒屋で」
「いや、聞かれたから打ち明けた。重いのかな。他人との距離感をとるのがうまそうだから」
「ま、別にそういうわけじゃない。でもさ、クラブで会ったときもそうだけど、嫌いじゃなさそうでしょ。私は女で、君は男じゃん」
「うん。まあ、今はシェアハウスで部外者は入れないんだよ。それに近くにはめぼしいホテルもない。だからってことだと思う。フィーリングも大事だけど、タイミングだってあるんじゃないかな」
 ちょうどテーブルに運ばれてきた鉄鍋餃子と麻婆豆腐と肉刺し盛りをそれぞれ小皿に取り分けて口に運ぶ。遅れて届いた豚角煮と長芋の黒酢餡に箸を入れた時にぼくは途端に彼女のことを思い出す。寂しさが埋められているのならば、話し仕掛けたりしてこない。代用品を見つけた時は不満そうだけれど、時間が経てば忘れるのも知っている。喉を生ビールで潤しながら食材を胃袋へと流し込んでいくと、会話が成立していないのかもしれないと不安になる。お互いに伝えたいことを相手に届けられているのだろうか。ぼくは彼女の言葉を歪めて理解しているのかもしれない。彼女はぼくの話なんて聞いてもいない可能性だってある。相槌を打つ彼女をみて、不幸な生い立ちの夫婦の本を読みながら明太ポテトサラダを摘んで居酒屋に座っている姿を想像して笑ってしまう。
「へー。何がおかしいの。じゃあ私がメールしちゃったのが馬鹿みたいじゃん。待っていればみたいなの、嫌いなんだけど」
「広告代理店に勤務していた時と今では考えていることが違うのかもしれないけど、認めたくないのは誰なんだろうって話をしてる。流されるように生きていてうまくいくやつといかないやつがいるのも伝わっているから」
「ねぇ、私はさ、普段は美容品会社の事務で地味で目立たない仕事をしてる。社内の広告担当だとかセールス担当に比べれば異性との関わり合いも少ないんだ。上司だって生真面目さだけが売りで清廉潔白を鼻にかけないことが美徳なんだ。だからさ、ほらスマフォでやるエンデリって仕事がちょっと楽しいんだ。騙している訳じゃない。男はちゃんと目的の行為を楽しめる。メールをして条件を確かめてから待ち合わせをする。けど、ざまーみろ、そいつは私じゃないんだぞってスッとする。私はやっぱり自分の嫌なところを人に見られたくないって思ってるから。いや、こんなこと人前で言う必要もないんだけど」
 急に自分の意見を話しだした悠亜はもう既に箸を止めていて、他人の不幸を肴にして味付けを変更されかねない話に巻き込まれることから避けようとしている。私は幸せで、満たされていて、何かを求めているわけじゃなくて、求められる人間なんだってぼくにはそう聞こえてしまった。美人でスタイルも良くて、異性関係はきっと未婚の女性なりの派手さもあるけれど、高鷺の言う通り心が乾いていくことを疎ましく感じられる年齢ではない。生ビールを一気に飲み干して店員におかわりを要求する悠亜を冷静にぼくは観察している。分析した事実を仕事に活かそうと心がけてきた時期を思い出す。ぼくはきちんと大人をやれていたのだろうか。
「久しぶりにまともな食事をしている気がする。最近は自炊出来る環境でもないからインスタント食品が多い。胃袋に届いてから栄養が脳に行き渡るまでどれくらい時間がかかるのか分からないけど、なんだか会社にいた時を思い出したよ」
「へぇ。何それ。じゃあやっぱり君は仕事なんてしてないじゃん。アルバイトって生き方を肯定できるほど子供にはなれないよ。あーじゃあ私のこれはそういう意味だ」
 小皿に食べかけの肉刺しが一切れだけ残っているけれど、少しだけおどけながらスマートフォンを自慢するようにして悠亜は生ビールに口をつけるのも辞めてしまった。ぼくはどうやらまだお腹が空いている。誰かと食事をする機会を持つのすら珍しくなってきた生活はぼくに望んだ変化を与えようとしている。居酒屋には二十代のカップルだとか中年の男性の四人組だとか女子会ではしゃぐOLがいて何処かで聞いたことがある言葉が機械みたいに再生されている。その場に合わせて明るい話題で満たされている店内の雰囲気は平日の夜を彩るのにぴったりでぼくは得体の知れない恐怖が薄れていく言い訳を探し始める。馬鹿げているって言いたいのはきっと悠亜の方だろう。後ろめたさを隠すようにしてぼくも箸を置き、ジョッキにちょっとだけビールを残して渇いた喉を潤す。
「うん。そうだ。ぼくらは大人で働く為に生きていて社会に貢献しなくちゃいけない。ぼく自身は誰かが代わりになれる存在じゃないけれど、その理由だけはちゃんと自分の力で見つけなくちゃいけないんだ。言われたことをやるだけの機械なんて誰も必要がない。だってぼくらは欲しいものがなんであるのかちゃんと知っているからだ。お金を稼がなくちゃいけない。悪いのは誰だなんて探し回ったってアニメや映画の中にしか存在しない。あぁ、確かにそうだ。こんな夜は馬鹿げてる。一緒に過ごしてくれてありがとう」
 悠亜はどうやら受け取った絵本の意味を理解してくれたらしく、選択をしていることに気付いてくれる。答えを先延ばしにしてしまえば、無益な夜は何度だって過ごすことが出来る。想いは一方通行で何処にも行き場所がない。笑えない冗談を言うより本音を言い合うのなら肌を重ね合わせた方がよっぽど簡単な流儀だろうって少しは大人になれている。どうやらぼくは大丈夫みたいだって彼女の少し寂しそうな表情を見て確認する。
「あぁ。うん。そう。いいよ。じゃあ。今日は帰る。全然酔ってない。明日も仕事。真っ直ぐ帰るよ。満員電車は嫌いじゃないから。へー君はやっぱり天才ってやつなんだ。やっぱりわかんなかったよ、私。君のこと」
「そうなんだ。ぼくには才能がある。だから誰にも負けないように磨き上げてみんなを満足させなくちゃいけない。出来ることをやるべきなんだ」
 お勘定を済ませようと手を挙げると、すぐに気付いた店員がとても元気よく声をあげてテーブルまで来てくれる。心地の良い接客とよく行き届いた気遣い。笑顔が多い場所は広告代理店に勤めていた時は苦手だった。自然でいることを要求しているのは自分でクライアントはそれでもぼくの意見を聞きたがる。主張しなければ奪われるような領土をぼくは不安定な毎日と一緒に手に入れていた。清原誠吾がぼくに伝えたかったことを悠亜は伝えに来たのかもしれない。お財布から五千円を出してテーブルの上に置く。ハンドバッグから赤い財布を取り出した彼女は冷静な顔でぼくを見た後に店員が持ってきた伝票の金額をチラリと確認して、じゃあお言葉に甘えてと作り笑いを浮かべて席を立つ。悠亜はぼくのことを気にしながらも前を向いていて先に店を出ると、レジで会計を済ませるぼくを外で待っている。小銭を受け取って財布の中に入れるのが嫌だったので、やっぱり右ポケットに突っ込んでガラス窓の向こう側の悠亜を見つける。
「ごちそうさま。お腹いっぱいで眠くなってきちゃった。はは。あーえーとーその」
「まだ時間が早いけど、頭の中にアイデアがあるうちに帰ることにするよ。明日も休みだし、時間には余裕があるから。一つ頼まれている仕事があるんだ」
「あぁ。そう。絵本。エドワードゴーリーだっけ。感想メールするよ。えっと。うん。それじゃあね」
 名残惜しさを引き摺っている悠亜を見て、ぼくは何を躊躇っているのかと自問自答をする。捨てきれないものを大事にしている事実に気付いているから彼女にキスをしたのかもしれない。引き返せない。逃げることも出来ない。取り返しのつかない問題ばかりが山積みでぼくを責め立てている。「おぞましい二人」は不幸な生い立ちだった。だから、絵本の中でだけ子供たちを残虐に殺すことを許されている。彼らは救われたんだ。
「君はメリーゴーランドファンタジーを見たことがあるって言っていた。大人に成る為の通過儀礼でいつか超えなくちゃいけない試練を夢の中でたくさんの人が同時に昇華するんだ。社会の理屈に逆らっちゃいけない。ルールは絶対で覆せない。君はそういうことを伝えにぼくに会いに来ている。だから、多分二度と会わないと思う。さようなら」
 本当なら、孤独を愛する時間を優先させることがどれほど愚かなんだって身に沁みるべきだ。一人じゃ片付けられない問題に立ち向かうことを勇気なんて呼ばない。無謀な作戦を立てて狡猾に生き残ることを考えていても現状は打破できない。捨てなくちゃいけない選択肢を取る自堕落さを意識が変形してもしがみつこうとしているのならぼくはやっぱり発狂してしまう。広告代理店の仕事はもう辞めた。取り返しのつかない事態に遭遇してぼくは何故泣き言を話したくなったんだろう。自分で決めた道を歩んでいることに自信を持たなくてはいけない。責任の在処に快楽を見つけては虱潰しに希望をはぎ取っている。デザイナーという職業はそういう秘密を抱えていた。

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