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「今朝未明、渋谷区の路上で女性の遺体が発見されました。殴打された後や体内に犯人のものと思われる体液が発見されたことから警察当局はこの事件を強盗殺人事件として捜査するものと見られています。被害者は内和奏水二十二歳。都内の法学部に通う大学生で──」
 自宅に帰っても何かをする気にはなれなかった。あいにく個室が四畳半ほどしかないシェハウスの自室にはテレビは置いていないので、スマートフォンのアプリを使い、ニュースなどで手に入るだけの情報を掴んでおこうと思った。自分だけが世界から取り残されてしまえば、関係性に気を使う必要はなくなる。アルバイト先程度の付き合いであれば、なんとか気持ちがすり減ってしまうようなこともなくなる。そう思って選んだ生活だった。誰かのことを考えること自体に疲れ切っていたんだと改めて思い知る。自分だけのことを考えて生きられるってどれほど楽だったかも理解している。きっとそれは弱さなんだろうって痛感させながら時間だけが過ぎ去っていく。誰にも頼らずに生きていきたい。ぼくは内和奏水のことを救うことが出来ただろうか。夕食を食べる気にもなれず、真っ暗な部屋でラジオアプリから流れるニュース番組の速報に耳を傾けてなんとか正気を保っている。狂気がぼくに笑いかけている。もしかしたら──
「おー。悠亜だよー。というか声暗いね。絶対電話なんて出ないって思ってたのに。あのさ、今何しているの? 私もさっき仕事終わってさ、エンデリで一儲け。なんか奇跡の五本ゲットってことで臨時収入。お酒でも呑もうよ。奢ってあげる」
 確かに彼女の言う通り、普段のぼくならスマートフォンの着信音なんて気にせずに、自分の好きな作業に没頭していたかもしれない。強烈な寂しさを鬱々とした感情が喰らい尽くそうとした瞬間に大谷悠亜からの呼び出しに思わずすがりつき、彼女の声を聞いて慰めを欲しがっている汚らしい自分の姿を呆気なく受け入れる。
「お酒って気分では到底ないけれど、誰かと話したいとはちょうど思っていた。暗いというか考えるのに疲れてしまっているんだ。それで良ければ」
「オッケー、オッケー。問題なし。とりあえず駅前とか出てきなよ。こないだのところでもいいし、下高井戸駅までいく。話したいこともあるしさ。ったくー。私が誘っているんだからもう少し元気だしてよねー」
「わかった。すぐ行くよ。うん、誘ってくれてありがとう」
 ほんの一押しで狂気に身を任せることに簡単に堕ちていってしまいそうな気分を大谷悠亜からの電話は暗闇に光をもたらしてくれた。誰かに気持ちを話せるというだけで気を抜けば簡単に壊れてしまう状況を立て直してくれた。都合よく甘えてしまう自分のことを嫌になりかけたけれど、入社して一ヶ月ほどの会社で知り合った知人の死は十分な言い訳をぼくに与えてくれた。突然の悲劇が遺した傷跡は抱えたままでいれば、ぼく自身を壊してしまう。迷いなく、着替えを済ませてシェアハウスを出て悠亜との待ち合わせに向かう。色々な物事を安易に片付けてしまわなければ頭の中が考えていることでパンクしてしまいそうだった。
「おー。君にしては早かったね。出無精っていうのかな。行動力がなさそうに見えるからさ、私も嬉しいよ。焼肉でいい? この前のお返し」
 下高井駅の改札付近に二、三泊用のボストンバッグを両手で持った悠亜がいてぼくを見つけるととても元気よさそうに挨拶をしてくる。ぼくは沈んだ感情をどうにかして取り戻そうとしたいと考えている。けれど、まさか開口一番アルバイト先の後輩が殺人事件に巻き込まれたとは言い出せずにそっけない挨拶を交わしてその場を凌ごうとする。
「まあ、そうかもしれない。そのバッグは? どこかに旅行?」
「あー。うん。というか後で話すよ。というか本当に暗いね。何か嫌なことでもあった?」
 なんとなく気まずさを感じたまま前に行った居酒屋ではなく、大衆ホルモンまで足を延ばしてみることにする。前に待ち合わせをした時のように手を繋いだり、思いがけない行動で突拍子のないきっかけすら起きそうにない。店に入ると、すぐに二人ともレモンサワーを頼む。誤解のない言い方をすれば、奏水の件が薄れてしまったみたいに感じているのは気のせいではないのかもしれない。悠亜のどことなく陰のある表情を見て気を使おうとしている自分に気付き、降って湧いた罪悪感を薄める為にレモンサワーに口をつける。
「少し気が滅入ることがあって急なお誘いでも嬉しいよ、ありがとう。一人だと悪いことばかり浮かんできてしまう」
「あぁ。そういう顔をしているね。理由聞いた方がいい? なんか思い詰めているっていうか」
 店内の賑やかさとは裏腹にぼくらの座っているテーブル席だけ束の間の静寂が顔を覗かせる。ぼくを塗りつぶしてしまいそうだった暗闇の気配がどこかに消え失せている。
「いや。なんていうか説明しづらいんだ。けど、話せる方が楽であることは確かだよ。聞いてもらえるのは少しだけ助かる」
「うわ。大袈裟だな。いいよ、今日は私から誘ったんだしなんでも話してよ。とりあえずお肉は盛り合わせでいいかな。じゃんじゃん食べておくれ。それに私もさ──」
「あ。そのバックのこと。聞いてないね。何処かに旅行?」
「うん。ちょっとね。実家に帰ることにしたんだ。最近よく親と連絡を取り合っていて。もう三十を過ぎちゃったからさ。なんていうか、そのね──」
「そっか。まあ、いつまでもこの街にいても仕方がないって気持ちはわかる。今なら特に。うちの親は放任主義だからぼくがどうなったとしても干渉はしてこない部分はあって」
「君の方が私よりも年上だ。そりゃそうだよね。お母さんがね、私にちゃんと幸せにならなくちゃダメだよっていうんだ。このままじゃ不幸を選ばなくちゃいけなくなる。そういうのは強さって言わないって。全然言い返せなかった、私」
 木曜日に食事をした時とは全然印象が違って悠亜は落ち込み気味で食事を奢ってあげるって威勢の良さとは裏腹にどこか物憂げで何かが足りない印象をしている。
「なるほど。ぼくが君に思っている印象とそんなに大差ない。君の母親と同じことを考えて会わない方がいいとは伝えた。まあ、レールの上の人生を選ぶ方が賢いのは当たり前だけど、ぼくはあいにくそこから外れてしまった。自分なりに答えを見つけて行かなくちゃいけない。自分の人生を肯定できないことほど辛いことはないからね」
「あぁ。どうなんだろうね。よくわからない。ほら、新宿のクラブで初めて会ったあの日ね。私はきっとファンタジーみたいなものを信じようとしていたんだと思う。だってそうじゃなくちゃおかしいことがたくさんあったから。けど、なんだろうね。君と話していたら違う答えがあるかもしれないって何処かで気づいちゃった。お母さんの意見なんてさ、まっすぐ受け取ったことなんて一度もなかったのに。あーあ。って感じかな。ねえ、それでさ、君はどうしたの? まじでこの前とは別人じゃん。ほら、なんていうか死にたいとかそういう印象なかったから不思議でさ。何、殺人事件にでも巻き込まれたちゃったとか」
渇いた笑いで冗談めかしながら、ぼくの表情の変化に気づいた悠亜の鋭い指摘に思わず何も言い出せなくなりそうで、俯いてしまうけれど、更に盛られたホルモンを炭火焼きの七輪に乗せてから一息つき、ハイボールを口にした後に聞こえてきた内和奏水強姦殺人事件のつまらない噂話で我に返り、澱んだ罪の意識を告白する。
「ぼくの同僚だったんだよ、彼女。昨日の夜、バイト先の歓迎会があって彼女には好きな絵を描いていると打ち明けた。キョトンとした表情でどうしてぼくみたいな生き方をしている中年男性がいるんだろうとでも言いたげだったけれど、彼女はぼくには何も言わずにその後の歓迎会で二十代前半の赤い髪の太ったバンドマンをからかって楽しそうに笑っていた。ぼくから用事があるわけでもないし、聞かれた質問にはきちんと答えた。脚色はしていないし素直な気持ちだけを話したから彼女の思っていることは普通の若い女の子が思う当たり前のことなんだって歓迎会の帰り道でそういう風になんとなく自分を納得させてしまった。やりたいことがあるって告白をすることがそれだけ滑稽に感じるのかもしれないと渋谷の街を歩いていて気づいたんだよ。ぼくは自己主張を理由に責任から逃れているんだって。社会全体の役割はそこに住む人間が安全に暮らして気まぐれな暴力から出来る限り隔離することだ。当然ながら、ぼくも広告代理店に勤めている間にそのことは思い知ったし、その通りだと思う。ぼくは文字通り気まぐれな暴力によって既存のレールの上から逸脱して自由を求めて絵を描いている。愚かだと彼女は思ったかもしれない。本当は何もしたいことがないから言い訳を並べているだけなんだって伝えたかったのかもしれない。けれど、どうやら内和奏水は突然訪れた悲劇的な運命によって人生の全てを断絶されて人格の全てを否定されることになった。それはぼくじゃなかったんだよ。逃げ道がないって思わなくちゃいけないのは誰だったんだろうって何度も考えている。痛みや苦しみから逃げてさえいれば、助かる道だって考えられるはずなんだ。ぼくは才能があって自由を求めて意志によって絵を描くことを選んだ。誰にも命令なんてされていない。会社の枠組みで嫌なことを押し付けられて愛想笑いで掴み取った仕事なんかじゃなくて、ぼくは自分を肯定するために自己表現を選んだんだよ。けど、駄目なんだ。どう考えても彼女の方が正しかった。未来を夢見て、勉学に励み、手に入れたかった希望を奪われるべき人間なんかじゃない。内和奏水は渋谷の路上で強姦をされ、犯人の体液を膣内に射精された挙句に、細く華奢な首を締め付けられて窒息して何度も顔を殴打されて殺されたんだよ。答えが見えない。ぼくはどうすればよかったんだ。選択肢がどこにもないんだ。行き止まりで逃げ帰ることも出来なくて、間違っていると社会全体に突きつけられた上でなお、ぼくは生きたいと考えているんだよ。生きることが絵を描くことだって自信を持って言うしかないんだってそんなことを考えもしなかったぼくが苦しんでいいのかすら分からない。彼女を救いたかったって本当に僅かな人間の心がぼくを駆り立てている。嘘をついてはいけないと頭の中で何度も責め立てられている。君から電話があった時正直安堵してしまった。救いの道が与えられたんだって。あぁ、お腹が空いた。君の奢りなら何にも遠慮なんてする必要がないじゃないか」
 七輪の金網の上で焼かれたギアラと上ミノとカルビが焼かれて火が通るにつれて身が引き締まり小さくなっていく様子を優亞は何も反応せず、ぼくは彼女が誘ってくれたホルモン焼肉屋の食事を愛おしむようにトングで肉をひっくり返して隅々まできちんと火が行き渡るようにする。ギアラを一つだけ箸でつまんで焼肉のタレを小皿でつけて口に運ぶ。歯応えを感じて口の中に広がる肉の味がどうにも美味く感じられてぼくは涙を流すことが出来なかった。
「あぁ。知っているよ、その強姦事件。テレビで散々やってた。私だって可哀想だなって思ったんだ。唐突に命が奪われたって事実が本当にさ。けど、知り合いだったのか。それでって言ってやりたいけど、君は真剣だ。私には何も出来ないよ。相談をしたかったんだ。母親が言っていたことが正解だったかどうか。ほんとそれだけ。だからさ、もうお前とは二度と会わない。さようならだ。最後の食事楽しめよ。最悪だ。お前」
 彼女はハイボールを口にせず手に持って持ち上げるけれど、憤りが溢れ出すのをカッコ悪いと感じたのか踏みとどまり、財布から一万円を出してテーブルの上に置き、ボストンバッグを持ってそのまま「言ってやったぞ」と独り言を呟きながら店内から出て行ってしまった。演技をして欲しかったのかもしれないと気がついた頃にはもう既に何もかも遅くて金網の上で焼かれるホルモンが黒く変色し始める頃になって空腹感と誘惑に負けて肉をタレにつけて無我夢中で食事を始める。立ち上がって追いかけることすらしない自分のことを卑しいと感じながらも、笑いも涙も消えてしまった夜が訪れたことをなんとか咀嚼しようとする。

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