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BFF ベタ・フラッシュ・フォワード【序章】

『建築論集』の一編で「白い紙が光のイラストレーションなのです。(中略)紙の上に一本の線を引き、そして一組のインクの線を引いたとき、その黒いところが光のないところだ」とルイス・カーンは描くこと・つくることについて語っている。一本の線で語るには、白い紙――広がる歴史や前列といった情報たちはあまりにまばゆい。現代の私たちは、あまりに多くの物事が存在することを、すでに知りすぎている。
 漫画の表現技法には「ベタフラッシュ」と呼ばれる、集中線の外側を黒くベタ塗りし、内側に明るく瞬くような白い光を表現するものがある。主には登場人物の発見や驚きなど、強い感情を表す図像として用いられる。いま、私たちの明るさへと向かう手つきは、このように周囲を塗りつぶすことから始まっている。

 いつの時代も、文化の一端として建築は存在してきた。建築史で私たちが学ぶ時代ごとの様式名――たとえば「バロック」「ゴシック」「マニエリスム」は、文化全般に共通のものでもある。聖堂建築そのものも、据えられる彫像も、什器も、あるいはふるまいも、大きな文脈の一部として等しく取り扱われてきた。
 一方、20世紀のモダニズム以降の文化史を様式と呼べるほど強いものでくくることは困難だ。ただそれらは、気分を表すキーワードとして流通してきた。1990年代に「ネオ・ポップ」と称された若手作家たちは、漫画やアニメーションといったサブカルチャーのイメージを引きながら、日本美術との連続を取り結んだ「スーパーフラット」や、内面世界の投影や日常の中に美を見る「マイクロポップ」へと各自が展開していった。この「ネオ・ポップ」からの分岐は2001年を境に急速に進み、形を少しずつ変えながら今も影響をもつ。
 「マイクロポップ」に見られる表現は、アマチュア的な創作姿勢や身近な素材や廃材を利用するつくり方、あるいはモチーフの内向性を特徴とする。各々のリアリティの中で世界を発見・編集するような制作の在り方は、2000年代以降に加速したリノベーションの盛り上がりに対して無関係ではないだろう。
 たとえば私たちがスキーマ建築計画の引き剥がし――≪sayama flat≫(2008年)に見いだした価値の根本は、まさしく「マイクロポップ」的なものであったように思う。

 発見と編集が無数に存在する状況それ自体をいかに取り扱えるか。私たちはいま一度考える段にやってきた。
 関係性への思考は、「みんなの家」を後押しした。関係性は人同士に留まらないものとして議論が続く。また人間の認知から離れて、もの自体を考察する動きもある。生まれたときからインターネットのある世界に生きる子らは、モニターの向こうの世界をいかに捉えるだろうか。西洋絵画の歴史はいま、ピクセルの向こうにも思考を広げていく。そして今や、思考の主体は人間をも離れつつある。
 すべてを詳細には追いきれず、また建築がすべてを包括することはいつも困難だ。しかし、実際の場として存在し、私たちが直に居る、ということは改めて考えるに値することであろう。

 本連載『ベタ・フラッシュ・フォワード』では平成初頭生まれの漫画家・連ヨウスケと建築家・山川陸が、同世代の作家への取材を通じて、これからの建築へ、ひいてはつくることの糸口を探る。
 振り返りの「フラッシュバック」ではなく予感としての「フラッシュフォワード」。来たるべき文脈は、現在の中に明滅している。その明るさを浮かび上がらせるべく、読者の皆さんもこのシリーズを共にしてほしい。

*『建築ジャーナル』2019年1月号に掲載したものを加筆、修正
  文・山川 陸

BFF ベタ・フラッシュ・フォワード[1] 持田敦子 美術家【橋桁を抱く想像力】へ続く…



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