自分史 Vol.5-1

自分史もようやくVol.5までやってきた。

「5の年」の折り返しに当たり、またとない時機かもしれないと、重い腰を上げて筆を執る。
今となっては「無境界な営業」と掲げられるようになった私が、自分の中にある凹凸と向き合いながら、少しずつ世の役に立てるようになってきた道程を、書き記しておこう。

2008年に龍谷大学哲学科哲学専攻を卒業した私が、いろんな業界の方と会えるという一点の理由から入社を決めたのは、西中島南方にあった商品先物取引の会社であった。前回の自分史Vol.4-2でも書いたように、そもそもは「世の中で最も役に立たない学問」という認識で哲学の門を叩いた私が、「世の中で最も掛け率の高い投資」の営業職を選んだのだから、世の中は本当に不思議なものだ。

周知の通り2008年とはリーマンショックなる金融恐慌が起きた年であるが、あれは秋口のことだから私を含む三十余名の新入社員が研修を受けている間は、投資の世界において飛ぶ鳥を落とす勢いの好景気であった。
私は生来の疑り深さに加え、哲学で身に付けた批判精神も相俟って、当時の高揚感をそれなりに冷めた目で見てはいたものの、あの夏に向けて市場を席捲した右肩上がりのチャートは、売り手と買い手とを錯覚させるに充分だと認めざるを得なかったし、いくらハイリスクハイリターンだとしても、長い目で見れば勝てる確率が高いと予感させたものだ。

金融について全くの無知と言ってよかった当時、会社が準備した電話帳をめくり上から順に電話するという、昭和の終焉から20年経とうかという時代に「世の中で最も苦手な仕事」から社会人生活を始めた私が、昭和の営業が良しとされた業界にあって、求められる営業マン像では勝負できないと早々に悟ったのは、配属前の研修で大声を出すプログラムだった。
今にして思えば、所謂体育会系の講師への反発もあったのだけれど、ボーイスカウトなどでは出る声があの場では全く出せず、出来るまで繰り返させる指導にあって同期の皆を待たせる羽目になった上に、翌日は一丁前に声を嗄らしたのを覚えている。
電話での営業に加え、大阪周辺での飛びみ営業もよくやっていて、谷町筋などの雑居ビルに入っては、エレベーターで最上階へ上がり、1件ずつのテナントをノックしながら、階段で下まで降りては、また次のビルへと歩いていて、非効率この上ないけれど、敢えて今でも役に立っていることがあるとするなら、出張先で開けるのを躊躇われるような、バーの重たい扉を開ける度胸ができたことくらいだろうか。

配属されてから初めてのお客様は、西成の方で不動産会社をされている社長で、リーマンショックで相場が暴落した直後の相場に賭けるなんて、「当たるも八卦当たらぬも八卦」どころか、そんな言葉を使うと占い師の方にお叱りを受けるんじゃないかというほどまさに博打で、金の先物に確か当時120~130万円くらいを賭けて勝ち逃げされたのは、運が良かったとしか言いようがない。
その結果自体は実力でも何でもない話だけれど、十余年経った今から振り返ると、たった十ヶ月間の間に、自分の得手不得手について客観的な視点を持てたという点で、貴重な修業期間であったことは間違いない。
そして、不得手なことをしながらも、本当の意味で苦労をしなかった一年弱を経て職を辞した理由は、会社にいらっしゃった諸先輩に自分はなりたいわけではないと悟ったからで、その場所で頑張り続ける理由を見失ったとも言える。

同期の友人に辞めることを告げた翌日には、社長面談までして社員のバッジを返却するような向こう見ずだったから、社宅から出た後のことを計画しているわけもない。
一旦は実家に引き戻って。改めて哲学科時代に関心を寄せていた「環境」というキーワードで職探しをしたのだった。
そこで、今もなお関係が続いている前職の社長と出逢うことになるのだけれど、この辺りは次回Vol.5-2として続けよう。

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