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今日一日が人生最後の日だと思って生きる難しさ

お世話になった人が亡くなった。
まだ60歳にもなっていない。
社会人になって間もない私を若いがってくれた年配の方だった。
よく飲みに連れて行った。
率先して社員旅行を企画する人だった。
結構激務なポジションに長いところいたから、体の調子が悪いんだろうな、と思っていた。
事実、私が一緒に仕事をしていた時、尿結石で苦しんでいた。
健康ではないけれども、もう少し長く生きるんだろうな、と思っていた矢先。
その方の訃報が飛び込んできた。

もう会えないのかという寂しさと同時に、お世話になったその人にもう何か恩を返せない悲しさの方が強い。
人生100年時代と言われているけれども、長く生きる人は長くいき、人によっては思った以上に短くその生涯を終えてしまう。
人はいつ死んでしまうか分からないのだ。
だから、今日1日を最後の日だと思って生きなさい、という考えがあるのも理解できる。
けれども実際のところはどうだろうか。
今日も1日ダラダラと過ごしてしまった。
毎日仕事に明け暮れて、また明日も仕事かと嘆く日々。
とてもじゃないが、人生最後の日なんて意識する暇すらない。
病気になったり、死期が近づけば自覚するのだろうけど、残念ながら一応健康な私はカスリもしない。
人生最後の日だと思って1日を生きるなんて、五体満足に生きている以上、かなり難しい。

今度は別の人から連絡がきた。
どうやら癌らしい。
5年くらい前に癌になって治療してしたけれど、最近になって再発したらしい。
5年前は体の一部だった癌が今度は全身に転移したそうだ。
その人は流石に人生の終わりを意識しているのだろう。
今日やれることをやる。
1日1日を大切に生きる。
言葉一つ一つ、行動一つ一つが重い。
そんな状況になって初めて、人は今日1日を人生最後の日だと思って生きるのだろうか。
そこまで追い詰められないと、人は自分の1日を変えようと思わないのだろうか。

いや。少なくとも、そんな死期を悟った人たちや身近な人の死に触れることで、気が付くことができるだろう。
人が死ぬことは悲しいことだけれども、決して悪いことではない。
身近な人が死期を悟り懸命に生きる姿を見て、自分の1日を振り返る。
果たして今日は充実した一日だったのだろうか。
有限の時間を無駄に使っていなかったか。
もっと充実した1日にできないだろうか。
今日が人生最後の日だったら、と考えるのは難しいかもしれないけれど、少なくともダラダラと時間を使ってはいけないなと気がつくことはできる。
限りある時間をダラダラ使わず、もっと自分にとって有意義のある時間に変えていこうと思う。

この時間は何のためにあるのか。
身近な人たちの死や病に触れて、もう一度考え直すのであった。

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