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中村真一郎『芥川龍之介の世界』の炯眼

これは「中学生の時から(つまり岩波の普及版全集の出だした頃から)の芥川の愛読者であった」という著者の芥川龍之介論であり、「おのずから大正時代の文学に対する昭和の時代精神からの照明ともなる」とするものである。その後の平成から令和の時代精神からの照明は、いかなる芥川龍之介を浮き彫りにするだろうか。ともかく感ずるところを抄録した。

「漱石没年の夏に、漱石と芥川、久米との間に交わされた長い往復書簡」は、「近代の日本文学史上の、最も美しい散文のひとつに数えられるだろう」と特筆されているので、あらためて往復書簡を読み返してみた。

「君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見てます。どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思います」(八月二十一日)

ここに、「新時代の作家」への期待、そのために「牛のように」というアドバイス、文壇への対し方まで、すべてが簡明に述べられているのだが、次の日に芥川の書いた漱石宛ての書簡には、「先生の御手紙がつきました」とは言いながら、漱石の励ましにはひとことも触れていない。漱石がすぐに懇篤な励ましを重ねた続信を出したのは、漱石の想いが芥川の心に届いているのか懸念したからだろうか。

「根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。‥‥牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」(八月二十四日)

これは漱石が「英文学者としての、また作家としてのながい半生を賭けて体得した不抜の信念」であり、「当代一流の作家が、文壇のトバ口にさしかかったばかりの無名の大学生に宛てて書いた手紙として、このみじかい一節にこめられた思いの深さは異様である」(三好行雄編『漱石書簡集』解説)と思えるほどである。「漱石は芥川のなかに、『新時代の作家』を予見していた」のであるが、その深い想いは芥川に確かに届いていたのだろうか。

では、「新時代の作家」とはいかなるものか。芥川にとって「鷗外と漱石とは直接の文学的師」であり、「彼はこの二人の文学者が西欧から移入した小説の方法――即ち、作家の私生活から作品を全く切り離し、仮構的な物語を作り出す、という理想を純粋な形で実現しようという野心に燃えていた。世間はそういう西欧の小説と同じジャンルの仕事を日本の作家が試みることを待望していたから、芥川龍之介は新しい小説家として多くの愛読者を持つことになった」のだが、案の定「文壇は世間の評価とは独立した観点から芥川の仕事を批判した」のである。

一方、「芥川の文学的同志であった久米正雄や菊池寛は昭和になってから新しい通俗小説のジャンルの確立者となった」のであるが、それは文壇ではなく読者の評価する新しい文学への挑戦ではなかったのか。すなわち、「大震災後、多くの作家が大衆小説を書くに至ったことの原因の奥深いところには、大正的文学の狭い純粋さに自縛されている自己を解放したい欲求も潜んでいたのかも知れない。短篇小説からの離脱、長編小説による『文学の社会化』が先ず通俗的舞台のうえに実現した」のであり、同時に「作家の私生活から作品を全く切り離し、仮構的な物語を作り出す」ことを可能にする場として選んだのではなかろうか、とする著者の炯眼は深く鋭い。言うまでもなく、私たち「一般読者にとっては作品が愉しく読めればそれでいいので、その作家の生活など知ったことではない」のである。

生涯の末年の芥川龍之介に、ゲーテは「最も羨望を抱かせた詩人」であった。というのも、芥川にとって、現実とは「微妙な神経がそこから快と苦とを人並以上に感じとる対象」であった。ところが、「ゲーテの方は現実を対象としてではなく、生の素材として受け取った。体験は樹液となってゲーテの精神を巡って行った」のである。そこに「あらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐる」かのごときゲーテを発見した。しかし、現実をもっぱら快と苦とを与えてくれる、「外部にあるものと考える精神にとっては、真の『体験』はあり得ようがない」のである。

だから、芥川は「我らの内にある一切のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我らに与へられた、唯一の成仏の道である」(『澄江堂雑記』)とわきまえながらも、天界の歓びも地獄の苦難もわが「生の素材」と受けとめることが出来なかった。「自分の理知に比べて生命力があまりにも貧弱であること」を自覚しつつ、「――『生活的宦官』たることに悩んでいた」のである。

たしかに「芥川龍之介は名文家」である。しかも、「フランスの短篇における警抜な視点の設定と、軽妙な驚きに満ちた物語の展開、なかんずく最期の部分での、落語のおちにも比べられるどんでん返しの用意は、そのまま芥川のもの」であったから、読み始めればたちまちに取りこまれ、ほとんど落胆させられることはなかった。少なくとも途中で投げ出すことは皆無であった。芥川龍之介の作品群は多様性の魅力に満ちていて、「モザイク的な美」を見事に発揮してやまない。「芥川龍之介の作り上げた多彩のモザイクのひとつひとつを想い返して」みた、以下に抜粋する著者の「試み」は炯眼のなせるわざである。

「その素材の拾われた歴史的な過去は、『素盞鳴尊』の古代から、『六の宮の姫君』を頂点とする王朝、『奉教人の死』をはじめとするキリシタン時代、『煙管』というような徳川期、『開花の殺人』などの明治初年の文明開化と日本の全時代に亘っているし、地理的に見れば、『山鴫』のロシア、『湖南の扇』の中国などもある」

「一方、また、形式の多様性の方から考えてみても、たとえば全集第一巻の目次を初めから眺めると、『孤独地獄』はエッセーふうの書き振りだし、『酒虫』は古い中国の説話の語り方を再現しているし、『猿』のような一人称の人物の回想もあれば、『手巾』のような平静な客観描写もあり、かと思えば『MENSURA ZOILI』は夢に托した寓話的諷刺だし、『尾形了斎覚え書』は徳川期の候文の調書の体を模している」

「さらに思い出すままにこのリストを続けて行けば、『袈裟と盛遠』のように二人の主人公の独白を合わせ鏡のようにただ対照的に並べたものもあり、『きりしとほろ上人伝』のように切支丹文献の文体模写もあれば、『藪の中』の同一事件に対するそれぞれ矛盾した数人の人物の証言や、『三つの宝』の童話劇手法、『第四の夫から』の書簡体、『或恋愛小説』の皮肉な対話体、『蜃気楼』の随想、『誘惑』のシナリオ、それに『河童』や『三つのなぜ』や『或阿呆の一生』など、ほとんど一作ごとに趣向を変えていると言ってもいい」

しかも、その全作品を通して著者が感ずるのは、「懐かしいばかりの人間的な優しさである」と言う。「ひとりの生きた人間としての彼が心の奥に一生抱きつづけていた、無垢な少年のような育ちのいい素直さは、今なおぼくらを郷愁に誘う」ばかりか、「彼の小説には本質的には憎悪はない。彼は人生の闘争のなかで、他人を真に敵として受け取るという態度をとることがなかった。理知は彼に敵を教えたろうが、感情はつねにそれに随(つ)いていかなかった。危機が発生するごとに、彼は他人を倒すよりは自分が身を退いた」のである。

ちなみに、雑誌ジャーナリズムについて。
「ぼくらの文学はほとんど全く雑誌ジャーナリズムの支配下にある。ジャーナリズムの風向きが変れば、偉れた才能と経歴との所有者といえども立往生させられてしまうことは、自然主義時代の泉鏡花にその著しい実例が見られるが、昭和初頭における藤村、秋声、白鳥、武者小路、志賀などの明治大正の大家たちの強いられた沈黙も、我が国の時代思潮の変転の急激さと、それに伴うジャーナリズムの敏感さを如実に現わす事件だった」
ここに雑誌ジャーナリズムの使命と功罪がある。デジタルの時代を迎えて、ジャーナリズムの世界はどのように展開していくのだろうか。

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