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祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#16

 その日は昼間見た光景が目にちらつき、悪臭が漂っている様で困った翌日、近所の人が食糧営団に米を取りに行こうと誘いに来られた。
大八車を持ち込み、米を運ぶ人もいてまるでお祭りさわぎだという。私は昨日見た事が頭から離れずよした。
しばらくたつと空手で帰って来た。響察は見張っているし、米の下からペシャンコになって悪臭のする男の人が出て来て臭さくて、臭くてそれで逃げ帰って来たと。ガッカリしていた。

 私の生家は百姓である。父母は私共にひもじい思いをさすまいと、ジャガイモ、米、麦、醤油、塩、その他色々のものまで岩国駅に務める弟が出勤する時必ず届けて呉れていた。
弟が東信号所に持って来ているのを夕方幸枝共が乳母車で取りに行くのである。お陰で子供達も、充分な事を云わなければ食べるのには困らずに済んだ。本当に有り難い事だと思う。

 食べる事に不十をしない現在、食料難であったあの頃、あの時代の事を忘れさられている様な気がする。
日々の糧に感謝する。そんな気持があの時代にはあったのではないだろうか。
今にして思えばそんな気がする。

 人が集まれば、敗戦の話しや、先々の不安をうったえる話題ばかりである。そんな中で、女や子供は早く田舎の方へ這入ねば、今にアメリカ兵が来て嬲り者にされる。そんな噂さを流す人がいたりして、不安の毎日だった。
戦争中は国の為、勝つまではと我が身のことは考えず一生懸命だった。こんな混沌とした世になって見ると出征した夫の身が心配だ消息も分らず、時々電文のような便りが届いていたが、十九年六月を最後に来なくなった。母子で写った写真を送ったが受け取ってくれたやら、大きくなった子供達にどんなにか合いたかっただろう、思えば胸が熱くなる。
こうして手紙の来ないまま八月十五日の終戦を迎えたのだった。

 会社も空襲を受けてかなり損傷を受け、仕事もままならない状態であるから最近は仕事にも行かず子供相手にぶらぶらと過す毎日だった。
八月十四日の空襲で完全に破壊され、岩国駅からの乗り降りは不可能になって下りは生駅、上りは大竹駅まで歩いて行かなければならなかった。車で行くと言っても大八車かリヤカーに乗るぐらいのものなのだった。
日本の国も人もボロボロになって、終戦を迎えた今、気軽に車を走らすガソリンも車も無い、むろんタクシーなんかない、車と言っても馬車を利用するのです。
上りに行っても、下りに行っても約七キロのデコボコ路をガタガタと馬車に揺られて行くのだ。
馬車に揺られ荷物を積まれる人はいい、大きな荷物を肩にかつぎ、手にさげて夏の暑い七キロの路は遠い。

 双児の子守をしてもらっていた山本のおばさんは、リヤカーで荷物を運ぶのを生業とする様になった。
戦争、敗戦という惨めさを背おった国は、国民生活をも苦しいものにした。
おばさんもその様な渦に巻き込まれた一人だ。一日運んで二千円から多い日には三千円にもなるとの事だった。そんな収入がほしい、車があれば私も始めたいなと思った。目の悪い弱々しい小さな体のおばさんが、毎日朝の日の出を待たずに出掛け、私共が夕食を終えた頃、空気のぬけたリヤカーがガシャンガシャンと音をたてる。疲れた様にその車を引っぱって帰って行く。
始めの半月ぐらいは運ぶ車もなく、おばさんの収入も良かったが、その内大の男がゴムの付いた大八車を引くようになり、次には馬車で運び始めると、おばさんの収入は少しになった。
おじさんは家で何もせず、おばさんの稼ぎを全部取り上げ、稼ぎが無くなると食事も十分に食べさしてもらえないから、ひもじいと嘆いていたそうな。
これも戦争という途方もない怪物がおじさんを変えてしまった。そのような気がした。
そんなおばあさんが気の毒で、中に入る人があっておばさんは大阪におられる兄さんの所へ行ってしまわれた。

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