中西犬人

山口県岩国市出身、現在は東京に在住しているイラストレーターです。 家族向けイラストやパ…

中西犬人

山口県岩国市出身、現在は東京に在住しているイラストレーターです。 家族向けイラストやパズル雑誌の表紙、カットなどをさせていただいています。 中西犬人はペンネーム、本名は中西靖智。

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祖母の残した戦争体験を記録した手記

はじめまして。 中西犬人といいます。 職業はイラストレーターです。 中西犬人はイラストレーターとしてのペンネームで本名は中西靖智といいます。 現在は東京在住ですが出身は山口県岩国市。 錦帯橋で有名なところです。 米軍基地があるところと思う人も多いでしょうか? さて、私がnoteを始めようと考えたのは祖母が残してくれた手記がきっかけでした。 2014年2月、祖母は99歳で亡くなりました。 今からちょうど10年前ですね。 その祖母が生前、60代の時に書いた手記があります。

    • ぼくはロボタ 第1回

      このお話の元「ロボタ」はロボットを作った人物を主人公にしていました。 では、作られたロボットの目線にするとどうなるだろう? 以前のお話はコチラ→「ロボタ」でご覧になれます それでは「ぼくはロボタ」のはじまりです。 ぼくの名前はロボタ じつはぼくはまだ生まれていないんだ ぼくの生またところは町はずれの小さな工場 この工場では乗り物の部品を作っているよ たとえば自動車のメーター、船のレーダー、飛行機の燃料タンク、 宇宙船のトイレも作ったこともあったそうだよ この工場の

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        30年かけてロボットを作り冒険をするお話。

        • 祖母が残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#21 最終回

           親のすすめで結婚した私達ではない。いえば自分勝手に一緒になった身故、親達に迷惑をかけるわけにはいかない。 四人の子供はどうして育てよう、女親一人で大丈夫だろうか。そんな様に色々悩み、苦慮して一日何もせずぼんやりとすごした。そんな気持の中に、義兄さんの話は戦友からの知らせなのだ。まだ、たしかな公報が届いたわけではない。間違いかも知れない。そんな気休めを思ったりした。 その考えは気に消えた。 二十一年九月十五日付公報が届いた。 義兄さんが持って来られた「この知らせを持ってくるの

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        祖母の残した戦争体験を記録した手記

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#20

           岩国駅も復興し小さくはあったが、大ぜいの人が利用していた 汽車の発者がおもしろいのか、はたまた、父の帰りをまっているのか毎日毎日、日には二度も三度も駅まで見に行っていた。 夕方、幸枝と薫がハアーハアー息を切らして走りながら「カアシャン、カアチャン」云いながら帰ってきた。「今兵隊さんが、こんなさきに帰っちゃた。駅から姉チャンと二人で内の方へ行くから、これが父チャンじゃろーと、喜んで後ろから追ってきたらこの先で違う方へ、すーと行っちゃた。ありゃあ、どこの父チャンじゃろうかなー」

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#20

          祖母が残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#19

           恵子も栄子も数え年六才になり、留守中も二人で良く遊び、大家のおばさん達にも可愛がってもらい、仕事に出掛ける私は本当に助かった。 昼食は家で子供と一緒に食事をした。薫も里の母にあずけて長く、もう二年生になる。いつまでも迷惑をかけていられず転校さすことにした。 岩国に帰っても友達が居なく寂しがり親許に行きたがった。土曜日の夕方汽車にのせる。柳井駅まで母が出ていて連れて帰り、翌日の夕方に岩国に帰ってくる。こんな繰返しをかなり長い間続けたが、その内学校にも馴れ友達も出来てくると行き

          祖母が残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#19

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#18

           二十年九月十七日台風がやって来た。 午後二時ごろ、雨が強く、ゴウゴウと吠える様に風が吹く。二人の子供は恐しい恐しいと一枚の布団に二人が入り恐がっている。 玄関の戸の一枚は釘付にし、他の一枚をがたがたいわして明けしめしている様な古い家だが、西側は土壁に焼杉の板張りなので心配はない。六畳の間の南に面した一間半の窓には長い一枚の板を横に、四枚をたてに釘付けとした。暗くなるにつれ、風は酷く、雨はしだいしだいに潡しくなる。幸枝と二人で玄関の戸を一生懸命支えるのだが風雨が強く吹き付ける

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#18

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#17

           新さんが来た。 岩国駅の爆撃以来一ヶ月目である。元気そうだ。お互い無事であることを手を取り合って喜んだ。そしてあの日の事をお互に語り合う。 当日、すなわち岩国駅大爆撃の日、新さんは出勤していて信号所の二階に居た。「ドドドドーンと爆弾が落ちて来たのにたまげ、階段をころげ下り防空壕に入ろうにも、中には人が多くて入れない。それでも頭だけは中に入れ、飛行機が飛び去ると室ノ木の山に向って、走りに走った。どこをどの様に走ったかわからない。途中又来た身を隠す所がなく側の川に飛びこんだ。葦

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#17

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#16

           その日は昼間見た光景が目にちらつき、悪臭が漂っている様で困った翌日、近所の人が食糧営団に米を取りに行こうと誘いに来られた。 大八車を持ち込み、米を運ぶ人もいてまるでお祭りさわぎだという。私は昨日見た事が頭から離れずよした。 しばらくたつと空手で帰って来た。響察は見張っているし、米の下からペシャンコになって悪臭のする男の人が出て来て臭さくて、臭くてそれで逃げ帰って来たと。ガッカリしていた。  私の生家は百姓である。父母は私共にひもじい思いをさすまいと、ジャガイモ、米、麦、醤

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#16

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#15

           駅の側に食糧営団が有り、米とか麦を入れる倉庫が建っていた。 そこはめちゃくちゃに毀れ、米、麦、大豆などが散乱し足の踏場もない状態である。あんな所に人が居る。高い俵の上に大の字になって寝ている。事実寝ているのやら死んでいるのやら。散乱した大豆の中から人の足が一本出ている。破れた俵の下から米と一緒に頭を前にたれ這い出そうとしているように見えるが、なぜか手は反対側を向いている人もいた。荷馬車の腕木の下敷きになり大きくなった腹から汁が出て蝿が唸っている馬や、俵を荷馬車に積み込む途中

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#15

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#14

           家に帰って驚いた。防空壕に用意していた蒲団三枚全部無くなってる。 大家さんの所では蒲団上下と鍋、釜が無くなっているというこんな混乱とした時、人の物を盗むとは何と情けない人が居るものだとつくづく思った。 午后は何も手につかずぼんやり過した。 夕方になって二、三軒先の家で大声で怒鳴っている声がする。五、六人の兵隊さんが吠えるように怒鳴っているのだ。「日本は負けるものか、負けたのでは無い何かの間違いだ、負けたなんて云ったら承知しないぞ」そんなに云っている。目からは大粒の涙をぼろぼ

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#14

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#13

           一夜明け十五日、どこから出たのか岩国にピカドンが落され町は無くなるとそんなうわさが流れた。大家さんの家族と私の四人で室の木の山奥深く入っていった。 ピカドンから逃げるために、リュックに大事な物を収め鎌とスコップを持ち、あっちこっち場所を物色し、ここと思う所の木を切り倒しテントが張れる様地ならし、そして柱を立てた。少し傾斜地だったので手にするまで大変な労力だった。それに大家のおじさん、おばさんは激しい力仕事が出来る年ではないので大方は私が造る羽目になった。それでも夜明けを待っ

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#13

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#12

           今日命拾いをしたのだからおはぎを作り子供とお祝いしようと思い立ち里から貰っていた小豆でおはぎを作った。 大きいどんぶりに山盛出来た。小豆がたりなくておにぎりにしたのも一皿出来た。神仏に供え、母子四人夫の武運長久を祈る。小さい二人は手は合わせてはいるが顔を見合わせてくつくつ笑い合っている。何がそんなにうれしいのか、戦争の悲惨がわからない幼児である。  茄子の塩揉に醤油をかけ、団子汁を作り食台の前に座る。 子供は大喜びでもう手を出している。口の回りに小豆を付けいかにも嬉しそう

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#12

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#11

           近所からラジオ放送が聞こえる。 敵機が豊後水道を北上、岩国方面に来るらしいと情報流している。 時計を見ると十時を少し廻っている。 大急ぎで昼食の用意をし大事な物は防空壕に入れた。いざと云えば何どきでも飛び込める様にした。 早く昼を食べておかないと空襲にでもなったら食べるどころではなくなると、カボチャの油焚きこれは子供が良く好んで食べた。これを支度し食台の前に座って一口、二口したとたん空襲警報がけたたましく鳴り出した。 二人子供を横抱きにし幸枝を急がせ防空壕に飛び込み戸を閉め

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#11

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#10

           そしてこんどはあの八月十四日、岩国駅周辺が大爆撃を受けた。 大型爆弾が空から雨のごとく落下し、まさにこの世の地獄絵となった日である。  柳井の里へ疎開をさしている一人息子の薫に私共が作ったトマト、味瓜、それに薫の好きなトウモロコシなどを手土産品に大きなリュックサックに入れ幸枝に背負わせ朝早く岩国駅に出た。五時一分下り柳井行に乗せるためである。この五時一分の汽車は里へ日帰りで帰るのに便利なので良く利用していた。 この朝、いつもはいない汽車が止まってた。変だナーと思ったが尋ね

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#10

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#9

           昭和二十年八月六日。  空襲が無ければよいがそんな思いをしながら会社に急いだ。きれいに製材された板を運び束ねていた。 午前八時を少し過ぎた頃、東の方から”ピカッ”目も眩むような光が刺した。 不審に思いヒョイと頭を起し土手越しに海の向こうを見ると、宮島と江田島の間の海上から、光の無い赤いような濃い橙い色のような塊がむくむくと丸く涌き出ている。側の二人の人と何だろうかナーと目剥いて見ていた。 突然、天地がひっくり返ったかと思う程の音がした。 窓ガラスはビリビリと振動し、地面は

          祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#9