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祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#12

 今日命拾いをしたのだからおはぎを作り子供とお祝いしようと思い立ち里から貰っていた小豆でおはぎを作った。
大きいどんぶりに山盛出来た。小豆がたりなくておにぎりにしたのも一皿出来た。神仏に供え、母子四人夫の武運長久を祈る。小さい二人は手は合わせてはいるが顔を見合わせてくつくつ笑い合っている。何がそんなにうれしいのか、戦争の悲惨がわからない幼児である。

 茄子の塩揉に醤油をかけ、団子汁を作り食台の前に座る。
子供は大喜びでもう手を出している。口の回りに小豆を付けいかにも嬉しそうに食べている。私も食べようと手を出しふと思い出した。国鉄員で岩国駅に務めている新さんは、今日は出番であるはず駅当りがひどく爆撃を受けた様だが、心配になってきた。生死をたしかめなければ私は食台に箸をおいた。
子供達が不思議そうに私を見つめている。
新は私の弟で二男にあたる。国鉄に入社後、広島県吉田口駅に務めた。この駅は広島から芸備線に乗り、中国山地の町三次駅から五ツ手前の駅である。昭和十九年の暮に岩国駅に転勤となり東信号所に務めていた。
岩国駅に務め始めて柳井の生家から通勤し時々仕事の合間には顔を見せていたがこの日は顔も出さない。大事がなければよいがと心配になり幸枝に食事を中断させて様子を見に行かせた。
一時するとハーハーいいながら走って帰る急いで帰ったのだろう。
幸枝は驚いたように目を大きく開き、岩国駅は何にも無いと云う。有るのは東の小さな信号所が一つだけポツンと立っている。この信号所の中で黒い者が多ぜい動いているのが見えた。その中から「幸枝よく来た家の者は無事か」こっくりすると「それは良かった。今日はこんな事で昼食も食べちょらん腹がへってたまらん何か食う物を持って来てくれ。家の中には大ぜいおるけーのー」元気のない声でそう云って、油と爆煙で真黒になった新さんが出て来たと話した。
弟が無事であった事が何よりもうれしかった。食べる物と言っても食台に支度しているものしかない。
子供が喜んでいたおはぎを二つづつ残し、おにぎり、茄子の塩もみ、とにかく食台の上の物全部大きな蓋おいの籠に入れ、幸校と近所の子供三人で持たせてやった。
新さん喜んだがもっと喜んだのは他の人達でありがとう「ありがとう何度もお礼を云われるので恥ずかしかったそうな。

 その晩の夕食は結局おはぎニツづつ、団子汁で淋しいものとなったが、近頃は色々な事がおこりゆっくり考える暇もなかったが、今、体中充実感で満たされた思いがする。

 町の火もだんだんと下火になり、ほっとした気持で寝床についた。

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