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素で生きる、ということ

大分間が空いてしまったのでリハビリ的に。9/27 - 10/3の振り返りも兼ねて。

スタンフォードソーシャルイノベーションレビュー出版記念イベントに参加して実感する「素に戻る」感じ

さて10月2日はこんなイベントに参加させて頂きました。

この中の

A)変化が生まれるように導くリーダーシップ
(SSIR参考論文:「システムリーダーシップの夜明け」)
- 高津尚志(IMD北東アジア代表)
- 青木健太(SALASUSU Co-founder / CEO)
- 今井章子(昭和女子大学グローバルビジネス学部教授)モデレーター

っていうところを担当したんですが、やっぱりSSIRという名前、そして僕以外の本当に経歴のキラキラした方々(そしてお話しすると、それ以上に人柄がキラキラされていらっしゃいました。カッコイイ。。)に囲まれてお話しするという設定に結構気負ってしまった自分がいたんですよね。

前日の夜とか割と緊張してしまってなかなか寝付けなかったです。(それでも6時間くらいは寝ましたけど)

でも、そのなにか「いいこと言わなきゃ!」っていうその気負い自体を控え室でお話しできたときにすっと楽になって、セッションそのものは割と「素の自分」でいられたように思います。今井さんのなんともあたたかいが芯を外さない進行と、高津さんの縦横無尽に言葉を操る力、真摯さ、そして情熱に囲まれて僕自身凄い楽しい時間でした。

あ、この気負いと素に戻る感じ、それがまさにこの「システムリーダーシップ」という論文の中で触れられている「心を開く」ということなんだな、とあらためて体感したところでもあります。色んな方に楽しんで聞いていただけたようでいくつか感想も直接いただいて嬉しかったです。

素で生きるということ

そしてその次の日にたまたまコーチングをうけたのですが(聞かれることがあるので申し上げるとこの2年くらい月一くらいでコーチングをうけています)、そのときのテーマになったのがこの「素で生きる」ということでした。

正確にはコーチング中は「これで〜す」っていう表現だったんですが、自分のことを全肯定してただそのままそこにいる生き方、というのでしょうか。変わりたいところは変化していきながらも、何か「成功しなければ」はもちろん「成熟しなければ」みたいなことも手放して、ただそこにいる、という生き方をしたいんですよね、という言葉が僕の中から出てきました。

突然ですが、スティーブジョブスのスタンフォードの卒業式のプレゼンってみたことありますか?(これもスタンフォードですね)。結構好きなプレゼンでもありつつ、一点あまり好きじゃないところがあって、それが「明日死ぬとしたら今日をどう過ごしたいか。それを毎朝鏡の前で自分に問いかける」というニュアンスの部分なんです。

僕は凡人なので、そもそも死にたくないし、今日も色々と後悔しているように絶対後悔するじゃないですか。なんかこの暴力的な問いで、もし平和が失われるとしたらそれは嫌だな、と。

でも、一方で「素で生きる」ということをもし本当に心の底から思って実践できたら、逆説的ですが明日死んでも良いなともおもったんですよね。それで大丈夫だろうな、世の中色んな人に託せるな、と。

研修で手放しきれなかった「僕の人生を見て」という気持ち

そもそもコーチとそんな話になったのも、研修の振り返りをしていたところからでした。9月は研修が多く8日間くらいはほぼフルで研修をしていたのですが、その時、あるテーマについてどうしても伝えたいことが多すぎて上手くまとまらなかった、という振り返りをしたんですね。

それを掘り下げてみると、やっぱりどこかで「この道を選択した自分の人生に意味があると誰かに思って欲しい」とか思っている自分のその気持ちが、ただそこにいる人たちに全力で向き合うことを邪魔しているんじゃないかと思ったんです。

まず意味があるかどうかを決めるのは僕、であるべきで、人の「評価」をもとめているうちは、自分で全力で肯定できてないんだな、と。自分の持つマジョリティ性(日本に産まれ、大学まで出させてもらい、男性で、という部分)が人を傷つけたこと、そしてマイノリティ性(NGOで働きカンボジアで暮らし、その他自分の中にある色々な当事者性)の中で自分が傷ついたこと、そんなことを全部諸々受け止める、いや、受け止められないことも含めて認める、っていうあり方ができたらもっと素直にその場所にいられたのにな、とちょっと反省をしました。

「素で生きる」しばらく自分のテーマになりそうです。

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