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「前衛」の暮れ方―二十世紀芸術の音楽を中心にした覚書―

最近「戦後」や「大戦間」という言葉を会話の中で使って果たしてとくに今の人に通じるのかと疑い始めている。それぐらい第一次世界大戦(1914年〜1918年)はもちろんのこと第二次世界大戦(1939年もしくは1941年から始まる、あるいは日本にとって日中戦争を第二次世界大戦の始めと考えるならば1937年から始まり1945年が終戦)も遠くなり「大戦間」からはほぼ一世紀経ち、また「戦後」といってもどの戦後と問い返されてもよいほど、1945年以降地域紛争とみなされるものはもちろんのこと、湾岸戦争を始めとする西洋諸国が直接闘った戦争が頻発していて、それになにより、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザでの容赦ない猛撃の真っ只中にいる私たちの生きる時代を「戦後」という言葉で規定するのは欺瞞でしかないであろう。

ところで西洋が初めて体験した世界戦争、それは第一次世界大戦。そのちょっと前にあった19世紀最後の戦争と言われる南ア(ボーア)戦争はそれまでの騎士道精神が存在した戦争と共通性があり、主に傭兵による戦争で、戦死より戦病死が多かった、と確か遠い昔東大世界史の一問目を予備校で解説してもらった時に教わった。この19世紀末の緩慢なペースの戦争を支えたのは19世紀末までの西洋世界の貴族もまだ健在だったブルジョア社会であろう。この時代は1871年の普仏戦争を最後にその勝者のドイツの老奸巨猾なビスマルク(Otto von Bismarck)の巧みな外交、工業による軍事力の強化による雌伏雄飛に徹した敗戦国フランス、とともかく50年近く西洋世界は戦争を体験せず、もっぱら帝国として―ドイツは出遅れちゃったけど―異国に進出し経済の発展の実りを享受したものであった。

そのためこの時代はフランス語でベル•エポック(美しい時代)と呼ばれ、フランスだけではなくヨーロッパ全体で平和を背景に楽観的であるのはもちろん、いささか退廃的な文字通り世紀末を体験していた。たとえば建築や日常の備品の機能性より装飾性を優先したアール•ヌーヴォ様式はその時代精神を見事に表現している。音楽においては、帝国主義的拡張による異文化との出会いによりフランスにおいてはドビュッシー(Claude Debussy)やラヴェル(Maurice Ravel)が非西洋の音楽を単なるエキゾチズム以上に取り入れ、従来のクラシックの「文法」から離れていった。ドイツ(音楽の話の時はオーストリアもこの固有名に入れてね)は植民地獲得競争に出遅れたためか、もっぱらその音楽は内側に向き、その昔小気味良い交響曲を量産したハイドン(Joseph Haydn)を生んだ文化とは思えないぐらい、この時代を画する音を作ったブラームス(Johannes Brahms)(特にその初期)や、その宿敵であったワーグナー(Richard Wagner)やそのエピゴーネンのブルックナー(Anton Bruckner)らのドイツの音楽家たち―そしてその影響を受けたフランスのベルリオーズ(Hector Berlioz)―は人間の内面を区切りのない茫洋とした―それはしばしば不機嫌な―ものとして描き、そこからさらに宗教がかった誇大妄想的世界観を提示していったのであった。西欧の帝国主義が最高潮に達したこの時代皮肉にも堅牢な形式による美しさを誇った音楽のドミソの帝国は内部から崩壊の予兆を感じさせていた。とは言え西欧社会は表面的には経済的繁栄による黄金時代を謳歌していた。


ドビュッシー ピアノのための組曲「版画」


ブルックナー 交響曲第五番


それをすべて変えてしまったのが第一次世界大戦であった。それこそ暦のうえの1900年ではなく第一次世界大戦によって20世紀が始まったと言われるぐらい、それは西欧にとっては熾烈な体験だった。その後わずか20年あまりで始まる第二次世界大戦は確かに絨毯爆撃、原子爆弾の使用、そしてもちろん特定民族の抹殺政策、と物理的被害、失われた生命という点であまりにも深刻な体験であったが、瓦礫に化した戦後の復興の困難そして直後に始まった冷戦のためその体験をすぐに総括することは困難であった。その意味では第一次世界大戦は建物など街の外観の目立った損壊がなかったからか、逆に人々の心への影響は甚大であった。つまりそれまでの戦争と違って傭兵だけではなく一般の人々が動員されて大々的に戦場に赴き、戦車、毒ガスなどの大量殺戮兵器の誕生を目撃し、それらの使用による惨状を体験し帰還することになるが、彼ら帰還兵はもちろんのこと彼らを迎えた市民もいまPTSDとよばれる神経症以上に精神の荒廃に陥ったのであった。それまで通用していたブルジュア倫理観が無意味となり、過去のヨーロッパ文化、精神性との断絶を痛切に感じることになった。

芸術は社会の鏡。ベル・エポックの欺瞞的と言ってもいい優雅な心地よさは消え、剥き出しの現実を露呈する表現主義、世紀末の誇大妄想的仰々しさを一切排斥した即物主義、これらの潮流が前面化する。もったいぶったと言ってもいい荘重なダヴィド(Jacques-Louis David)のナポレオンの戴冠はもちろん遠く昔のものとなっていたが、印象派の柔らかい色の暖かいグラデーションは鮮烈な色彩のスペクトルに絡む放埓に躍動する線分のカンディンスキー(Vassily Kandinsky)のコンポジション、あるいはオットー•ディックス(Otto Dix)の戦場の惨状をそのまま持ってきたような負傷した帰還兵の虚ろでグロテスクなモノクロームのスケッチに全て駆逐されてしまった。

カンディンスキー 『コンポジション 8』
オットー・ディックス 『戦争』

ヨーロッパは地理的にも文化的にもそれまで楕円のように横にゆるやかに伸びていたが(西欧、中欧、東欧)、初めての世界戦争のあとには複数あった楕円の焦点が収束するようにその文化の中心は西に移動した。世紀末の中央ヨーロッパの首都ウィーンの人々の慇懃の背後に潜む病理を見ることに躍起になっていたフロイト(Sigmund Freud)の精神分析が無意味になると言っていいほど、戦後のベルリンでは低劣な欲望や精神異常こそが人間の真実なんだと言わんばかりに『嘆きの天使』『カリガリ博士』などの映画が上映され、パリでは褐色の女王ジェセフィン・ベーカー(Josephine Baker)が煽情的な踊りでパリジャンを熱狂させた。

クラシック音楽においては上にも書いたようにその崩壊の予兆はすでに世紀末において垣間見れらたが、暦の上で世紀がかわり、シェーンベルク(Arnold Shoenberg)の無調への離脱(例えば『六つのピアノの小品』、op. 19)、ストラヴィンスキー(Igor Stranvinsky)によるリズムの破壊(誰もが知っている『春の祭典』)は第一次世界大戦後によって決定的なものとなった。シェーンベルクとストラヴィンスキーの試みは創作上の実験、つまり芸術として独創性の追及であったが、第一次世界大戦の惨禍を経験した若い作曲家たちには無調―といかなくて不協音そして不規則な拍子は彼らの音楽を表現する必要なもの、生計の手段となったのだ。古典派の聴き巧者を感心させる気の利いた和声の展開やロマン派による魅せられたる魂を表す永遠に続くような旋律は、彼らに突きつけられた過酷な現実と決定的に齟齬をきたしたのだ。

シェーンベルク『六つのピアノの小品』、op. 19


ストラヴィンスキー 『春の祭典』


装飾性、仰々しさをはぎ取り、むき出しの媚びない音楽、等身大の音楽の登場。確かに音楽的独創性つまり前衛性と言ったら、大戦前の二つの革命―シェーンベルクによる調性の破壊とストラヴィンスキーによる拍子の解放―以上のものはなく、大戦後の若い音楽家たちはこの二人が開いた新たな音楽の地平線にとどまっていたが、シェーンベルクは自らが開発した新たな技法十二音音楽によって今までと同じようにドイツの音楽における覇権をうそぶき高踏を気取り、ストラヴィンスキーは一連の「野蛮」な音楽によって音楽愛好家を脅かすことによって名を馳せたあとは新古典主義という優雅にモーツアルトと戯れるような音楽に気散じていたのに対して、大戦後の若い作曲家たちはこの二人が広げた音楽によって、思う存分に彼らの芸術を表現していったのであった。それは優雅な王侯貴族のためではなく、孤独な天才のためではなく、自分たち、戦争に総動員され辛苦をなめ、その後の混乱に苛まれる大衆の(ための)音楽であった。

大衆の(ための)音楽とは、雑然としていてしばしばその安寧を不意に事故や不幸に襲われる生活、だがそれでもそれなりの秩序がある日常生活、それを表現する音楽のこと。果たしてそれが大衆が求めた音楽かどうかは分からない。もしかしたらそれはちょうどベートーヴェンが同じ旋律を様々な和声や拍子に載せて堅牢な交響曲を構築していることがその時代の主役となった謹直な市民の日々の営みを反映されていると言われ、したがってベートーヴェンの音楽を聞いていたのは市民であったとされているが、実際にコンサートホールに出向いて聞いていたのはもはやパトロンではなかったがいまだ貴族であったという研究があるように(Tia DeNora, Beethoven and the Construction of Genius: Musical Politics in Vienna, 1792-1803, University of California Press.)、その顰にならえば第一次世界大戦後若い作曲家の音楽は確かに大衆を描いていたが、大衆が享楽したものではなく、どちらかというと大衆の生活の混沌、乱雑さの中の秩序を描いていたのではないだろうか。そう、それはまさしく大衆の生活の音―台所の食器を上げ下げした時の音、ベッドの軋み、車のクラクション―を表しているのかもしれない。「大戦間」に顕著になった例えばイタリアのルイジ・ルッソロ(Luigi Russolo)などのノイズの音楽とは表向きは違うが、即物的な音という意味では軌を一にしているのではないか。それは必ずしも大衆のための音楽ではなく、言ってみれば音楽によって大衆の生活を描く音楽であった。

音楽を通して社会を理解する。20世紀初めの音楽は教会で神を称える(バロック)ためではなく、王侯貴族の娯楽(古典派)でもなく、あるいは天才の憂鬱なる魂なるものを臆面もなく露にする(ロマン派)のではなく、普通の人々、つまり庶民の生態を描いた。

第一次世界大戦後の若い作曲家たち、ベルリンのヒンデミット(Paul Hindemith)、クルト・ヴァイル(Kurt Weill)、エルンスト・クレネック(Ernst Křenek)、そして遠く東方のレニングラード(今のサンクトペテルブルク)では独裁者が押し付ける「社会主義レアリズム」の枠内でそれが隠蔽する現実を大胆巧妙に表現したショスタコーヴィッチ(Dmitri Shostakovich)らの前衛性とはシェーンベルクとストラヴィンスキーによって解放されたクラシック音楽によって大衆を描いたことではなかったのか。

民俗学としての音楽、それが第一次世界大戦後の前衛音楽だったのかもしれない。

例えばヒンデミット。彼は社会の支配層の貴族でもブルジュア出身でもなく、またドイツを支配しいて偏狭な愛国主義に走るきらいがあるロマン派の音楽に疑義を抱いており、むしろラヴェルやドビュッシー影響下にいて、兵士として塹壕で第一次世界大戦を体験し、精神の均衡を保つため塹壕で敵国のドビュッシーの弦楽四重奏を演奏するほどの音楽の普遍性(多文化性)を信じていた。

実用性の音楽(die Gebrauchsmusik)というものを彼は標榜する。そのためか彼の楽譜の指示は細かい。そしてそこにはしばしば真面目に言っているのか冗談で言っているのかわからないユーモアがある。『朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲(Ouvertüre zum "Fliegenden Holländer", wie sie eine schlechte Kurkapelle morgens um 7 am Brunnen vom Blatt spielt)』などと言うロマン派の総帥ワーグナーを揶揄した題をつけ、実際『さまよえるオランダ人』の序曲を調子っぱずれに演奏することを指示する。もちろんこれは直接的には彼のロマン派への忌避を表しているが、モダニストである彼は近代が歴史の到達点にいると自負し、神ももはや死んで人間が世界の中心にいて人間の営為が全て出尽くしたという認識、そしてそれらを全てを把握しているという傲慢さと、偉大なものはもはやギリシアなどの過去にしかなく、近代においては過去の順列組み合わせによる変奏すなわちパロディしかない、という冷めた歴史感覚を持ち合わせていたに違いなく、誇大妄想による自己完結した先達を茶化すことになったのは自然な成り行きであった。哲学をおさめたものとしてちょっと筆を滑らせてもらえれば、20世紀初頭であっても慧眼のモダニストは1980年代を待たずポスト・モダニストであったのだ。

ヒンデミット 『朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲』


また良く引用されるが彼のヴィオラ・ソナタ(op. 25-1)の第三楽章の「荒々しく、音の美しさはどうでもいい(Rasendes Zeitmaß Wild. Tonschönheit ist Nebensache)」という指示がいみじくも語っているように、ヒンデミットの音楽は音自体が躍動しながら、聞いている人の心と言うより耳に直接迫ってくるような新鮮さと明るさがある。第一次世界大戦の戦禍は遠くなったが、黒い長靴の行進の不吉な音が響き始めた時期(1938年)の連弾ピアノの透明感ある切れの良い音の躍動、時代錯誤の誇大妄想的音楽趣味の独裁者による退廃芸術(Entartete Kunst)という誹りを逃れアメリカに亡命した時(1942年)に作ったピアノ・デュオの横溢する音の戯れ―もちろんピアノが二台であるという効果なんだけど―は興奮させる。同じ1942年に創作されたバッハばりの対位法を用いた『ルードゥス・トナリス(Ludus Tonaris)』。その厳格な構造とは裏腹にその題が示すように―音の遊戯―みずみずしい音の戯れが直接的に官能に迫ってくる。ヒンデミットの音楽は目まぐるしく展開する都会生活を鮮烈な音の戯れによってコンパクトに描いている、と言って良いだろうか。

ヒンデミット ヴィオラ・ソナタ(op. 25-1)


バッハ回帰を謳い、シェーンベルクとストラヴィンスキーが開いた新時代の拡張された音を厳格に再構築し、その音楽を人々が実用することを目指したヒンデミットとは違った形で大衆に接近したのがクルト・ヴァイルである。アメリカの好景気に支えられた「大戦間」の1928年に彼は音楽は少数のためではなく、今までの音楽と違ってもっと簡潔で、明確で、透明であると宣言する。そしておそらく彼よりブレヒト(Bertolt Brecht)の名を想起させる『三文オペラ』という「音楽付きの劇(Theaterstück mit Musik)」の作曲を手がける。マルクス主義者であったブレヒトは当然社会からのけ者された人たちに注目するが、なによりも彼は無法者、盗賊、ようはハチャメチャな奴らを偏愛していた。この劇も若者が、乞食から上前をピンハネしている極悪人の元締めの娘に手を付けてその怒りを買い、命を狙われるのだが、運と才覚と胆力によってその悪の手から逃れ、みごと貴族までのぼりつめる、ピカレスク仕立てになっているのだ。もちろんこの若者も品行方正ではなくブレヒト好みの極道で、それをヴァイルは冒頭の歌「マックザナイフ(Die Moritat von Mackie Messer)』でその人殺しを含めた犯罪歴にいささか能天気なハ長調で同じ旋律に乗せ繰り返し言及し、この劇が前世紀のヴェルディなどの愛と死が交換する運命的な復讐劇ではなく、都会の無情性惨劇を誠実にというよりパロディのように描き、現代の刹那主義的に放恣に流れる欲望を描くことに成功している。おそらくこの時代―大戦間!―において、前衛すなわちクラシックの最先端の音楽と大衆が一番近づいたときでなかったのであろうか。

クルト・ヴァイル 『マックザナイフ』

その後―戦後!―クラシック音楽は再び大衆に背を向け、少数の聴き巧者のための音楽としてますます先鋭化し1950年代に頂点を迎え、クラシック音楽の受容のあり方も新しい作品から過去の傑作の演奏を観賞することが中心となる。その後の音楽の革新性は大袈裟にいえばバッハの再来と呼んでもいい、和声の斬新な試みをしているチャーリー・パーカー(Charlie Parker)やセロニウス・モンク(Thelonius Monk)らのビバップ、そしてもちろん音の求道者のマイルス・デイヴィス(Miles Davis)やジョン・コルトレーン(John Coltrane)らのジャズに見出す方が正しいのかもしれない。

セロニウス・モンク 『ブルーモンク』


ジョン・コルトレーン 『至高の愛』


マイルス・デイヴィス『ビッチィズ ブルウ』

戦後復興の1950年代から1960年代になると時代は高度成長による「豊かな社会」(ガルブレイズ)を迎え、ラジオ受信機、そして音声拡声再生機が大衆に普及し始め、聞き心地のよいポップミュージックが今までない規模で大衆をとらえたのであった。アドルノ(Theodor W. Adorno)が『音楽社会学序説(Einleitung in die Musiksoziologie)』の中で「画一化」と「疑似個性化」という概念を使って徹底的に侮蔑するのが、I―IV―V―I というクラシックの基本和声進行に美しい旋律で感傷的な気持ちを歌い上げるポップミュージック。その極北にあるのが百貨店や文字通りエレベーターでかかっている英語で言うエレベーターミュージックって奴だろう。

20世紀の始めに―暦の上でも上で定義した第一次世界大戦の衝撃で始まる文化史的時代区分でも―シェーンベルク、ストラヴィンスキーによってもたらされた音楽の革命、そしてその後その地平で試みられた新しい音の実験は音楽の存立条件を根本的に問い直した。これこそが前衛―あるいは単に芸術と言ってもいい―の営みなのだ。ところが20世紀の終わりには同じ「音楽」という名詞は―その前に大衆のと言う修飾語が付くが―おおよそその世紀の始めとは全く違ったものをさす、すなわち感動、熱狂というものを与える装置を意味するものになった、といえるだろう。

音楽の商業化そして商業の世界化によって音楽も世界化し、それはこの文章で話してきた20世紀よりいま私たちが生きている21世紀初頭において一段と徹底した。さらにインターネットという通信技術はラジオ・テレビより遥かに伝播力において凌ぎ、アドルノが言った様に音楽体験はますます(疑似)個人化した形で画一化されて来たように思われる。

でも本当にそうなんだろうか。そもそもアドルノが洗礼を受けたポップミュージックとは彼がアメリカ合衆国に渡った1930年代後半に流行っていたティンパンアレー風の音楽、ビッグバンドのジャズで、それらにとどまっている。ところが皮肉なことにその時よりポップミュージックは進化し、さらに皮肉にもその進化の歴史はクラシックのそれの繰り返しのようで、ポップミュージックも先鋭化し、この分野の野心的な音楽家はおおよそ単純な和声ときれいな旋律を捨て、少数の愛好者用の音楽を作るに至った。21世紀になりポップミュージックも隘路に迷いこんでしまったのだ。個体発生は系統発生を繰り返す。

1960年代から音楽シーンの前面に出てきたポップミュージックは崇高な教会のコーラスに匹敵する美しい歌声のサイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel) やひまつぶしや癒しの装置を超えて、曲作りに社会性を内包した概念を導入したザ・ビートルズ(The Beatles)らによって大人が真面目に聴いて批評する対象になったといってよいだろう。1970年代にクラシックの素養があり、重厚な対位法を用いたカーペンターズ(The Carpenters)や巧妙な和声を展開するエルトン・ジョン(Elton John)はまるでバロックや古典派のような音を奏でた。大音響で歪んだ音を轟かすハードロックが19世紀末のマーラー(Gustav Mahler)の巨大管弦楽のスペクタクル的な物量主義と呼応するのを見たり、このハードロックのスターであったギタリストたちの速弾き比べなどをこれまた19世紀のパガニーニ(Niccolò Paganini)のヴァーチオーゾやリスト(Franz Liszt)の超絶技巧に比べるのはそれほど悪い冗談とは思えない。

サイモンとガーファンクル 『スカボローフェア』


ザ・ビートルズ 『バックインUSSR』


カーペンターズ 『ミスターグダー』


エルトン・ジョン 『ユアソング』

ところが1980年代中頃に登場したラップによってそれまでの音楽の旧来の概念が否定されるのである。ラップはそれまではコンサートなどで歌の途中でオペラのレチタティーヴォのように挿入される歌のスタイルに過ぎなかったが、ジャンルとして確立し、テクノロジーの進化により、過去の音楽や騒音をコラージュ(マッシュアップ)し、和声も旋律もないヒップホップに進化していった。20世紀初頭に起きたシェーンベルクとストラヴィンスキーによるクラシック音楽における革命がクラシック音楽を終らせたように、ラップとその発展形態のヒップホップはアドルノが聴いたこともない聴き巧者の批評眼(耳?)に耐えうる音楽としてのポップミュージックを潰してしまった。

もちろんクラシック音楽でイタリアやフランスの心地よい歌曲がメインストリームであったように、ポップミュージックでもちょっと前に書いたように感動と熱狂の装置としてますます21世紀において機能している音楽が大半だ。Auto-TuneやAudacityなどのソフトウェアによる音程修正及び複数録音の最適音をつなぎ合わせる音声編集は皮肉にもかつてのシュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen)のように音楽の破綻という前衛を企図した録音機というテクノロジーの多用とは全く逆に万人が万人にとって心地よいと思う音楽を製造するのを可能ならしめたのであった。

アドルノがクラシック音楽の幼稚な形態と軽蔑した単純な和声進行に乗っかった紋切型の旋律でサッカリンのような甘ったるい歌われる歌詞のポップミュージックはますます栄え、そしてクラシック音楽は巨大な世界企業のメセナに支えられ社会の支配層の慰みものとなった、というもはや前衛もへったくれもない、すなわち芸術とはべつなところに音楽は来てしまったようだ。

耳を、でも、澄ませてよく聞いてみよう。

ポップミュージックにくさびを打ったヒップホップ。いまその分野を代表する二人、フランク・オーシャン(Frank Ocean)やケンドリック・ラマール(Kendric Lamar)は、前者は不思議な透明感をもって、後者はおおよそその正反対に日常生活の怒鳴りあいなどを含めた不快な語りで、性的同一性、社会的暴力、家庭内齟齬を触媒として内面に沈潜し、存在としての普遍性に到達しようと試みている。即物的リアリズムを媒介とした内省。これを芸術―すなわち前衛―と言わずして何をいうのか。ちなみにケンドリック・ラマールはほとんどクラシック音楽家にしか与えられてこなかったピュリツァー賞を受賞している。

フランク・オーシャン 『ブロンド』


ケンドリック・ラマール 『Mr. Morale & The Big Steppers』


ところで先日若い友達の音楽家によるシューベルト(Franz Schubert)のピアノの連弾曲(D. 940)を聴いたのだが、全くクラシック(古い)と感じられず、actualな(当代の)音楽として耳に響き、衝撃を受けた。演奏後なぜ古く感じせず現代的に聴こえたのか、とその音楽家に問うと、in tempoを守りながらもわずかな瞬間だけ自由に和音のタイミングをとり、そのことによってリズムを強調し、ダイナミックな効果を狙っている、とのこと。温故知新、換骨奪胎、と色々いえるが、既成のシューベルトのイメージを破壊するその強度が今までにない音楽に聴衆を誘ったことは間違いない。

このようなところにもしかしたら「前衛」は生きているのかもしれない。

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この文章を書くため岡田暁生著、『西洋音楽史』『音楽の聴き方』(共に中公新書)及び『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』(人文書院)、Alex Ross, The Rest is Noise Listening to the Twentieth Century, Farrar, Straus, Giroux、Peter Gay, modernism, William Heinemann、Charles Rosen,  “Who’s Afraid of the Avant-Garde?” in The New York Review of Books, May 14, 1998 issue、Theodor W. Adorno, Einleitung in die Musiksoziologie. Zwölf theoretische Vorlesungen (English translation; Introduction to the Sociology of Music, The Seaburry Express)、長澤唯史、『70年代ロックとアメリカの風景』、小鳥遊書房、を参考にしました。


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