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神さまと生きるために知ってほしいこと 4章 罪とは? その2

引き続き、聖書が教えている罪について改めて考えてみましょう。
罪という言葉を聞くと、多くの人は次のことを連想します。

1. 犯罪。盗んだり、殺したりすること。
2. 1まではいかないけれど悪い行い。嘘をついたり、人を傷つけること。

確かに、上記のようなことも「罪」というのですが、これは聖書が本当に伝えようとしていることの中心からは、少しずれています。
それを理解しておかないと、私たちは自分の行いを正すことによって罪から離れることができたと勘違いしてし、行いを正していない人々を批判し、裁くようになってしまいます。

では、聖書の中で表されている「罪」とは、どんなものを意味しているのでしょうか?
シンプルに考えると、「罪」は、次のように定義することができます。
復習しながら、少し違う視点でみてみましょう。

1. 神さまと離れた状態

神さまとの約束を破り、「善悪の知識の木」から取って食べてしまったアダムとエバは、肉体的にすぐに死ぬということはありませんでした。
しかしその時、アダムとエバは霊的に死んだ者となってしまっていたのです。
霊が死んでしまった人間は、霊的な存在である神様との関係を持つことができなくなってしまいます。
この時から人は、神様との関係が断絶してしまったのです。

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神様との関係が壊れた事でできてしまった穴を、私たちは他のもので埋めようとします。これを偶像崇拝と呼びます。

かつては自分たちで作った神々を崇めましたが、現代ではお金や仕事、ファッションなど、私たちはどんなものでも偶像とします。

宗教改革の立役者となったジャン・カルヴァンは、「人間は偶像製造機のようだ」と言ったそうです。
あらゆるものを偶像にしてしまうのが私たち人間なのです。

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教会や牧師でさえ、私たちは偶像にしてしまいます。
神さまを信仰しているつもりでも、いつの間にか「キリスト教」という偶像崇拝になってしまうのです。
私たちを満たすことができるのは、神さまだけだということを忘れないでください。
そして、神さまとの関係の中だけで満たされるようにしましょう。

2. 自分が神になろうとすること(善と悪を自分で決める)

悪魔は、「これを食べた時、あなたの目は開かれて、神の様になる。」と言う言葉でエバを誘惑しました。
これもまた、私たちが抱えている本質的な罪です。
私たちの中には、全てのものをコントロールし、自分の思い通りにしたいという願望があります。
全知全能の神さまではないのだから、全てが思い通りにいくはずなんてないのに…。

それは、善と悪の価値観の中に大きく反映されています。
神さまが創られたままの私たちにとって、善とは神さまに従うことであり、悪とは神さまに背くことでした。
全ての善は神とともにあり、神さまから外れれば悪でしかなかったのです。
でも神さまから離れてしまった私たちは、善と悪を自分で勝手に決めるようになってしまいました。

それぞれに善と悪を決めてしまうので、普遍性はありません。
人によって何が正しくて、何が間違っているかが違うのですから、そこには必ず争いも起こります。
戦争を考えてみてください。
戦争は善と悪の戦いによって起こるのではなく、互いの善がぶつかり合うことによって起こる争いです。

キリスト教の中でも、教派や神学の違いでぶつかり合い、争いが起こります。
真理を追究する建設的な議論は大切ですが、多くの場合は、「どちらが正しいか」という自分の正しさを求める不毛な争い(自己義認)のために感情をぶつけているだけです。

正しさは、神さまにだけあるのであって、私たち自身や神学にあるのではありません。
私たちは、クリスチャンになった後も、まだ善悪の知識の木の支配の中に陥って、相対的な善悪が起こす争いを続けています。
罪とは、このような恐ろしさを持つものなのです。

3. 神さまが創ったように生きないこと(マト外れ)

“罪”と言う言葉を、聖書が書かれた言葉で直訳すると、“マトはずれ”という意味の言葉になります。
“マト”というのは、弓矢などの目標とするターゲットのことですね。
神さまから離れ、神さまから聞くことを止めてしまった私たちは、神さまが本来求めていた生き方から大きく“マト”を外してしまっているのです。

神さまは善であり、愛ですから、その計画の通りに生きていれば、この世界は素晴らしいものであるはずです。
全ての人が、神さまに創られたままの自分として生きることができれば、私たちはみんな幸せだったはずです。
でも、神さまとの関係が壊れてしまった私たちは、神さまの計画に耳を傾けません。
私たちは、神さまではなく自分の善を信じているために、普遍的な神さまの善に従いたいと思わなくなってしまったのです。

良かれと思ってしたことが、最悪の結果になってしまったという経験はありませんか?
それを自覚できればいい方で、自分が正しいと思ってやっていることが、問題をどんどん大きくしてしまっていることに気づいてさえいないことも少なくありません。

私たちは、良いことをしようと思って行動するのですが、神さまから離れているので、良くない結果をもたらしてしまいます。

「次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」『彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。』『彼らの唇の下にはまむしの毒がある。』『彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」『彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ 3:10-18)」

これが、罪の状態にあるということなのです。

―考えてみましょうー
神さまが創った世界は素晴らしく、完璧なものだったはずなのに、私たち人間はそれを台無しにし、この世界を、たくさんの苦痛があり、悲劇があり、問題だらけの場所にしてしまいました。
しかも私たちは、それを神さまのせいにして、神さまが私たちを苦しめているように思ってしまうことさえあります。
もしも皆さんが神さまの立場だったら、どのように感じるでしょうか?



いい加減な気持ちで創ったものなら、どうなろうとどうでもいいと思えるかもしれません。
しかし神さまは、心を込めて、愛をもってこの世界を創造しました。
私たちはそれを壊し、台無しにし、互いを傷つけ合っています。
それは、神さまには許し難いことだったのです。

「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ 1:18)」

私たちは、神さまの怒りのもとにあります。
大きく愛していたからこそ、その怒りもまた、大きな怒りです。
本来なら、怒りに任せてすぐに私たちを滅ぼしても不思議はないことです。
滅ぼされたとしても、私たちには文句を言う資格がありません。

でも神さまは、すぐに世界を滅ぼすという選択はしませんでした。
私たちが悔い改め、神さまの元に戻ってくるのを少しでも長く待とうとするかのように、世界は未だに滅ぼされてはいません。

とはいえ、命の源である神さまから離れてしまった人間は、放っておいても滅びてしまいます。
そして、神さまから離れた状態の私たちは、死ねば永遠に神さまの元に行く方法すら失ってしまいます。
そのまま行けば、待っているのは永遠の裁きであり、滅びしかないのです。

でも神さまは、私たちが罪によって滅びるままにしては置きませんでした。
人間が罪を犯したその直後から、神さまは救いの道を計画し、それに向けて動き始めておられたのです。 

<コラム:行いの罪について>
聖書が教える罪の根源は、神さまから離れることだと学んできました。
私たちが神さまから離れているから、本来の道から外れ、行いの罪を犯してしまうわけです。

では、罪とは神さまから離れていることを意味しているのだから、行いの罪を犯すことは「仕方がない」ということでいいのでしょうか? 
そういうわけではありません。

出エジプト 20:2-17を読んでみてください。
ここに記されている「十戒」をはじめとして、聖書には様々な律法が出てきます。
そして律法には、罪の行いから離れるようにと厳しく記されています。
そのため神さまは、いろいろな行動を制限し、型にはめ、それに合わない人を罰しようとしているのだと感じる人もいるかもしれません。

でも、神さまが、私たちに行いの罪から離れて欲しいと思っているのは:
行いの罪は、私たちが神様から離れていることの表れであるから、
そして私たち自身や、互いを傷つけるものだからです。

罪の行いには、必ず傷と痛みが伴います。
罪は自分自身を傷つけたり、他の人たちを傷つけるものなのです。
中には、直接人を傷つけていないように感じる罪もあります。

例えばポルノを見ることなどは、「誰も傷つけていないのに何が悪いんだ」と言う人たちがいます。
しかしポルノを見ることは、女性の価値を傷つけることであり、それを見る人々が女性を見る価値観に傷がついています。
そうして歪んだり傷ついた価値観が、結果的に大きく女性を傷つけることになっていくのです。

神さまは私たちを愛していて、私たちが互いに愛し合うことを願っています。
神さまが、罪から離れるのを私たちに求めているとき、私たちを型にはめて、違反者を罰したいと思っているのではありません。
神さまは、私たちが自分を傷つけ、互いに傷つけ合うことを悲しんでおられるのです。

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