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神さまと生きるために知ってほしいこと 3章 罪とは? その1

1. 世界は完璧だった

創世記 1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
創世記 1:10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。
創世記 1 :12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。
創世記 1:18 また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
創世記 1:21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
創世記 1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。
創世記 1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

聖書に記されている最初の2章を読んでいく中でわかるのは、世界は完璧に創られていたということです。
世界創造の記述の中で、「神はそれを良しと見られた。」という言葉が6回出てきます。
全知全能の神さまの目に適うものなのですから、この世界は本当に素晴らしいものだったのです。

そしてとうとう、人間が創造された時、この世界を見た神さまは今までとは違う感想を述べます。

「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。(創世記1:31)」

そして、全てを見て満足した神さまは、世界の創造を終えて休まれたと書かれています。

「神さまがもともと創られたこの世界は、完璧で素晴らしいものだった。」
これが、聖書の重要な世界観です。
完璧な神さまが創るものは、完璧なものなのです。

でもそこで、疑問が湧いてきませんか?
「この世界って、そんなにイイかな?」
「完璧な世界と言うけど、幸せじゃない人がこんなにたくさんいますよね?」

神さまが創造したこの世界が、本当に素晴らしく完璧なものだったなら、この世界にはどうして、こんなにもたくさんの問題があるのでしょう?

地球上は戦争や紛争が絶えることなく起こり、自然は破壊され、貧困・飢餓で苦しむ人たちがいる。
人間は憎しみ、欲望、絶望の心で満たされている。
病気があり、災害が起こり、死による別れが来ます。
この世界のどこが完璧で素晴らしいものですか?
神さまの完璧さなんて、しょせんこの程度のものなのでしょうか?

そこでわかってくることがあります。
それは、神さまが創った世界と、今僕たちが生きているこの世界とは、何かが違うということ。
そこに何かが起こり、問題があって、神さまが創った完璧だった世界は変わってしまったのだということです。

完璧だったはずの世界は、どこに行ってしまったのでしょう?
一体、何がこの世界を変えてしまったのでしょうか?

―考えてみましょうー
罪とはどんなものだと思いますか? 自分の言葉で説明してみましょう。



2. 世界はどうして壊れてしまったのか?

世界がどうして今のようになってしまったのかということについて、聖書では創世記3章全体を通して記されています。
聖書の中でも有名な話、アダムとエバが禁断の実を食べてしまう話です。

この話は、いろんな理解のされ方をしていますが、「こういう風に考えると、少し意味がわかるよ」という考え方を紹介します。

初めの人アダムとエバが住んでいた所は、エデンの園と呼ばれていました。
これは、神さまが創った完璧な世界でもあり、喜びが満ちる楽園、天国のような場所だったのです。
園の中央には、「いのちの木」と、「善悪の知識の木」と呼ばれる木があったと書かれています。
アダムとエバはリンゴの木を食べたと思われている方もいるようですが、ふたりが食べた禁断の木とは、ここに出てくる善悪の知識の木のことです。

神さまは、「園にあるどの木からでも好きなように食べても構わないけれど、“善悪の知識の木”だけからは、取って食べてはならない。それを食べたらあなたは必ず死んでしまう」と伝えました。

ここで疑問が起こります。
それならこの木はなぜ、「いのちの木」に対して「死の木」という名がつけられるのではなく、「善悪の知識の木」なんていう紛らわしい名前がつけられたのでしょう?
最初から「死の木」とか、「毒の木」と呼ばれていたら、アダムもエバも、食べたいなどと思わなかったのではないでしょうか? 

しかしこの木は、「善悪の知識の木」という名前で呼ばれる必要がありました。
「善悪の知識の木」という名前そのものが、この木の本質を表しているからです。

―考えてみましょうー
「善」とは何でしょう? そして、「悪」とは何でしょう?



聖書の価値観によれば、
善とは神様に従うこと
悪とは神様に背くことです。

神さまがこの世界の創造主ですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
同じように神さまと共にいのちがあり、神さまから離れるならば死があります。
神さまが光であり、神さまから離れたところは闇になります。

「善悪の知識の木」と呼ばれているのは、この木を食べたら「善」と「悪」がわかるからではありません。(悪魔はそのように嘘を言い、エバを騙しました。)
アダムとエバは、この木から取って食べるか食べないかという選択をすることによって、善と悪を知ることができたから、「善悪の知識の木」と呼ばれたのです。

つまり、全てが許されているエデンの園の中で、この木から食べるということだけが、神さまに背く「悪」だったということです。
そして神さまに背くことは、いのちである神さまに背き、離れることを意味していました。
だから、「善悪の知識の木」から取って食べるなら、必ず死ぬのです。

―考えてみましょうー
神さまは、わざわざなぜ、悪を行う事ができる選択肢を人に与えたのでしょうか?



罪の結果、人間には次のようなことが起こりました。

3. 霊的に死んだものとなった

創世記2:16-17、エペソ2:1-5を読みましょう。

「神である【主】は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』(創世記 2:16-17)」
「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ 2:1-5)」

神さまは、「善悪の知識の木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と告げていました。
でもアダムとエバは、実を食べてすぐ、その場に倒れて死んでしまったわけではありません。
それどころか、聖書にはアダムとエバは900年以上生きたと書かれています。

「なんだ、やっぱり死なないじゃん」と、彼らは思ったかもしれません。
でも、実はそのとき、アダムとエバは確かに死んだものとなっていました。
神さまに背いて善悪の知識の木から取って食べたとき、彼らの肉体はすぐに死んでしまうことはありませんでしたが、ふたりの「霊」は死んだものとなってしまったのです。

また、変なことばが出てきました。
「霊」とは何でしょう?
聖書で言う「霊」とは、幽霊のことではありません。
神さまを見ることができないのと同じように、神に似せて創られた私たちには、見ることができないけれど、神さまと同じ霊のある存在としても創られていました。
だから人は、霊によって神と語り合うことができていたのです。

しかし、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べたそのとき、人の内にあった「霊」の部分は死んでしまいました。

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霊が死んでしまった私たちは、霊的な存在である神さまとの関係も切れてしまいます。
それによって私たちは、神さまの言葉をはっきりと認識することができなくなり、その存在すら確かなものとして感じることができなくなってしまったのです。

アダムとエバは、霊的に死んだ後もすぐに神さまの存在を見失ったわけではありませんでした。
しかし人間が神さまから離れてしまったことは、たくさんの問題を引き起こすことになります。

4. ありのままの自分で生きる事ができなくなった

創世記3:7を読みましょう。

「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。(創世記 3:7)」

2014年は、ディズニーの『アナと雪の女王』©2014Disney が大ヒットし、主題歌の「ありの~ままの~姿見せるのよ~♪」という歌がどこででも流されました。
あの歌が、日本であれほど人気になったのは、みんな“ありのままの自分”で生きたいという気持ちが大きかったからではないでしょうか。
それだけ多くの人たちが、自分はありのままの自分として生きていないと自覚したということでもあるでしょう。

罪人となったアダムとエバは、いちじくの葉で自分たちの腰のおおいを作ったと書かれています。
それは、ありのままの自分は恥ずかしい存在だと思うようになったからです。
ありのままの自分でいることが、なぜ恥ずかしいのでしょう?
それは、ありのままの自分は、神さまとの関係が壊れ、神さまが創った素晴らしい自分ではなくなり、罪人となってしまったからです。

ありのままの自分でいられないということは、自分を偽らなければならなくなったということです。
自分を偽るということは、人は嘘をつくようになったということです。
悪魔も嘘つきですが、人間も嘘をつく存在となってしまったのです。

5. 神さまとの関係が壊れた

創世記3:8-10を読みましょう。

「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
彼は言った。『私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。』(創世記 3:8-10)」

アダムたちと同じように、私たちも無意識の内に神さまを避けます。
それでも心の内には神さまを求める心もあるので、自分たちで神さまを作ろうとします。
自分で作った神さまは怖くないからです。
そして、自分で作った神さまに、自分に都合の良い願い事を聞いてもらおうとするのです。

でも、自分で作った神さまに願い事をかなえる力なんてあるはずがありません。
そして、神さま以外のものを神さまのように愛し、神さま以上に愛することは、神さまにとっては不倫のようなものでした。
だから、聖書の中で神さまが最も嘆き悲しむ罪は、偶像崇拝――つまり、神さま以外のものを神さま以上に大切にすることなのです。

6. 責任を回避し、転嫁する様になった

創世記3:11-15を読みましょう。

「主は言われた。『あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。』
人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。
神である【主】は女に言われた。『あなたは何ということをしたのか。』女は言った。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。』(創世記 3:11-13)」

アダムは、善悪の知識の木から取って食べてはならないと命じられていました。
神さまに背いて、禁断の木の実を食べてしまったことを神様にとがめられたとき、アダムは「あなたが与えたエバがわたしに食べさせたのです。」と、責任を妻のせいにしました。
それを、責任転嫁と言います。(責任を嫁に転じると書きますね。)

私たちは何でも人のせいにしてしまう傾向があります。
親のせい、学校のせい、会社のせい、世の中のせい、ついには神さまのせいにします。

でも、どんな時でも行動を決断しているのは自分自身ですよね。
そして、自分のしたことの結果は必ず自分自身に返ってきます。
アダムに食べるように言ったのはエバであり、エバを誘惑したのは蛇(悪魔)でしたが、食べる行動を決断したのはアダム自身でした。
そして食べた結果、アダムは罪人となり、神さまとの関係が断絶してしまったのです。

7. 人間同士の関係が壊れた

創世記3:16を読みましょう。

「女にはこう言われた。『わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。』(創世記 3:16)」

壊れたのは、神さまとの関係だけではありませんでした。
互いに責任を逃れて相手のせいにしようとする人間たちは、共同体として互いを愛し合うように創られていましたが、その愛の関係も壊れてしまったのです。

アダムとエバとの間にあった夫婦の関係も、互いに信頼し合い、愛し合う絆が壊れ、支配し、支配されるような関係となってしまいました。

私たちの社会にも人間関係のトラブルは絶えません。
生きていく上での一番の問題は、人間関係の問題だと言っても過言ではないでしょう。
これも全て、罪(人が神さまから離れてしまったこと)の結果なのです。

8. 呪われた世界となった

創世記3:17-18を読みましょう。

「また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。(創世記 3:17-18)」

先ほど見たように、神さまが創った世界は完ぺきのはずでした。
しかし、人間が神さまに背いた結果、私たちが生きるこの世界も、素晴らしいものではなくなってしまったのです。

土地は呪われ、いばらとあざみが生え、私たちは一生苦しんで生活しなければならなくなったと聖書には書かれています。
病気も、災害も、事故も、神さまが創った世界にはなかったものです。
罪によって神さまと引き離され、神さまの祝福を失ってしまったこの世界は、様々な災厄が伴う場所となってしまったのです。

9. 死すべき存在となった

創世記3:19、22-24を読みましょう。

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」(創世記 3:19)」
「神である【主】はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。』神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。(創世記 3:22-24)」

私たちはもともと、神さまに似せられ、永遠の存在として創られていたはずでした。
しかし、永遠の存在だった霊が死んでしまったため、永遠には生きていることができなくなってしまいました。
私たちの肉体は、やがて衰え、死に、土へと帰っていきます。

辛いですが、次の章も「罪」に関してです。
「罪」とは何かを理解することは、とても大切です。

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