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ポップス考察記 2023.03時点

松田くんが「今から釣りに行ってくる!」と興奮気味に言う。
明日の晩にはシンクが捌いた魚の血の海になる予定なのだという。

それじゃあ明日の晩飯はあえて、ご飯を炊いて、味噌汁だけ作っておくから、タンパク源は釣果のみに頼ってみよう。

そんな提案をすると松田くんは一層息巻いた。
そして夜も更けた頃に意気揚々と家を出て行った。

福永は狩りに出る人を待つ人となった。
明日の夜ご飯の質は一切自己決定できないのだ。
待つこと。それ以外に何もできない。

そうなってみて気付いたのだが…人生の一部にランダム要素を盛り込むことは楽しいことだった。ワクワクするのである。

これはどうしたことだろう。
一般的に人はリスク回避的な行動をとると言われている。
時折無性にギャンブルが好きな人(=リスク愛好的な人)っていうのもいるがこれは少数であるとされる。
実際に、投資家の行動について社会科学的に考えようとするとき。
投資家はリスク回避的な行動をとるだろう、という前提で分析をする。

小学生の頃、教室の後ろには「自己紹介用紙」とでもいうべきクラスの人数分の紙がずらりと画鋲で止められていた。
名前、ニックネーム、自画像…など、己の基本情報を記載するのだ。
その中に確か「将来の夢」という項目があった。

将来の夢のコーナーにはさまざまな夢が描かれている。
サッカー選手、花屋さん、お嫁さん、F1レーサー、虫を研究する人、ウルトラマン…

それがいつの頃からか安定を考慮するようになった。
安定した収入、安定した暮らし。
それは大人が聡く選ぶべき良い道のことであり、正しい選択である。
気付いたらそういうふうに考えるようになっていた。

今、大金持ちになりたいと思っている人は多分少ない。
持続的な経済成長が見込めないことを悟った多くの人は目標をシフトし
「とりあえず食えてればいいや」
とはいえ食えてるっていうのは収入が例え少なかろうと、なにしろ安定している、ということである。

なんとなく、本当になんとなくで我々は安定を善なるものとして認識している。

科学は大気圏を破り宇宙へ繰り出した。
ガガーリンさんが言うにはソラから見た「地球は青かった」のだそうだ。

電子顕微鏡はついにミクロの世界をも見破り、物理学をより一般的なものにした。

あらゆることが自らの力で制御できる
コントロールできるというのは、安定しているということである。

だからこそ二重スリット実験のような、ぱっと見意味がわからん挙動を見ると不安になる。
(量子レベルの小さな世界では、人間が観測した場合と、観測しなかった場合で、物の動き方が変わっちゃう、らしいのである。マジで意味わかんないけど現時点では「なんかわからんけど厳密に実験しても明らかにそうなので、もうしょうがない」という合意のもと話が進んでいるようだ。文系なので詳しくはわかんないです。)

人権という思想を紆余曲折ありながらも確立し、というよりきっと今もその「確立途上」である現代ではダイバーシティが叫ばれる。
ここで理念として掲げられるのは「人は一人一人(その立場や能力によらず)十全に生きる権利を持っている」というものだ。

自らの意思決定を自らの思惑で行うことができる。
何人もその権利を阻害することはできない。

自ら意思決定ができる、というのは安定しているということである。
自分で選べない出来事が次々ランダムに降り注ぐ状態は不安定だ。

そして今夜。
福永は自分の晩御飯の量と質を決定できないのである。
にも関わらず、この状況を「ちょっと楽しいこと」として受け取った。

安定は多分、これだけ多方面から褒めそやされる以上、かなり良いものなのだろう。
あるいはこれだけ、経済も科学も思想も人に「安定すること」を包囲網的に突きつけるならば、我々が安定を趣向するように社会的に染められていたとしてもなんらおかしくはない。
そういう社会では当然身につくべき一つのスキルとして安定を趣向している可能性が大いにある。
それが意識的につけ、無意識的につけ。

…それはもう、卵か鶏か、みたいな話で、多分どちらでもあんまり変わらない。
大切なのは、今僕らは安定を好んでいる…なんなら信奉すらしている、という、その事実の方である。

ところがどうやらランダム性は…つまり「不安定であること」は時に人生を彩るスパイスになるらしい。

多くのテレビゲーム・スマホゲーム・ボードゲームなどは中にランダム性を加えることで人々を魅了している。
遊戯王カードやポケモンカードのパックを開封する時のワクワクを忘れられない同世代は少なくないだろう。
(これは今の子には伝わるんでしょうか)

そう考えると。
ある程度安定していた方が良い。
でも、何もかもをコントロール下に置く必要はない。
不安定は、人生に深みを織り成す調味料なのだから。

そしてどうせ、全てをコントロールできるわけもない。

株価の予想かつては人が、その後はコンピューターが、そして今では…
予想なんてできないんじゃないかという風の吹き回しになっているときいたことがある。
社会科学は科学の衣を纏い人々に信頼を与えるワザの一つになった。
だが…社会の情勢はリアルタイムに把握・予測できるほど単純ではなかった。
物理法則が持つ一種の一般性。
そういうものを人間社会全体にも見出そうとした。
だが、それは、少なくとも今のところ….
多くの人がざっくりと感じているよりも遥かに
「実は大して把握もコントロールもできていない」ということのようだ。

ランダムにワクワクを覚えるのはかつて狩猟採集民族であったホモ・サピエンスにとって重要な特性だったかもしれない。
狩りはやはりコントロールが難しい分野である。
相手は動物だし、天候や地形、体調だって影響を及ぼす。

ランダムにワクワクを覚える要素を一定度持った遺伝子のほうが狩猟採集時代において子孫を繁栄しやすかった。
こんな雑な進化論的仮説を立ててみる。
きっと学者の方々に怒られるだろうが。妄想はタダである。

さりとて福永は今晩、狩りの無事を祈る先史時代の村人となったのだ。

先史時代の村人になった、と書いた直後にこんなテクノロジィ〜なことを言って申し訳ないのだが、本日夕方ごろ、松田くんからLINE通知が届いた。

LINEをひらくと車の前に土下座している松田くんの画像が表示された。
その下には、こう書いてある。
「釣れた魚がでかすぎて持ち帰れない!今日はおかずなしで!

というわけで今晩は米と味噌汁を質素に頂いた。
魚のフライはお預けである。
だが、なんといっても、不思議と気分が良い、というのは発見だった。
自分がコントロール下に置けないもの、を少なくともいくらかは持っておく。
あるいはどうにもコントロールできないものが今目の前にある。

それをこそ楽しむ。
時と場合にもよるが、安定がこそ必ず善とは言い切れないのだ。

一緒に晩御飯を食べた友人はセブンイレブンで唐揚げ棒を買ってきて裏切りムーブをしていたが、福永の方は何やらそういう気は起きなかった。

自分にコントロールできない、不安定なもの。
それは(捉え方次第では/用法用量を間違わなければ)人生を彩るスパイスなのである。


スパイスといえば。お次はカレーにまつわる話である。

このところ沸いた新たな欲求がある。
それは「老若男女だれにでもわかる平易な表現であるにもかかわらず、途方もない奥行きを感じる表現」をいつの日かできるようになりたい、という欲望だ。

この記事でも言及している。

特定の分野を深く深く掘り続けていくと、時に一般の理解から遥かに乖離する。
大体の場合、専門家が専門用語で喋っている様子はちんぷんかんぷんである。

易しくて奥行きのある表現とはどういうものか。
例を挙げるならばミヒャエル・エンデの「モモ」やサン=テグジュペリの「星の王子様」のことを念頭に話している。

いずれも福永が幼少期に読んだ、そして、成人するに至るまで数年おきに「なんだか読み返してしまう」作品である。
さらに、驚くべきことに、読むたびに感想が変わるのだ。
子供には子供の。青年には青年の。大人には大人の沁み方をする。

大切なのは、子供の頃、言語力に拙かったはずの福永にも楽しく読めたという点である。
読めるだけではない。また数年後に読み返したくなるくらい楽しかったのだ。

それだけ平易な言い回しであるにも関わらず、何度読み返しても、大人になっても、また発見がある。これが奥行きだ。

一様に優劣はつけられないが…専門家が専門用語で最も深い内容について喋るよりも一層骨の折れる作業に思える。
なにしろ多くの感度が熟達した人間が、それについて専門用語を使わずにお話しする、みたいなことだから。
しかも、楽しく。そして、奥深く。

それで最近、ポップスとは何のことなのか、以前にも増して考えるようになった。

少し前までは、福永はそもそもポップスなんて存在するのか?と若干懐疑の目を持っていた。

友人が「100年前の人も100年後の人もどんな人でも感動する、通底する、普遍的な作品を作りたい」と語ってくれたことがあった。
その話を…福永はやや冷静に受け取った。
それは「狙って作ることはできない」んじゃないか、と。
そして、そんな絶対的な良さってのが、本当に存在するのか、と。

人が作品に感動するかどうかにはさまざまな要素が混合する。
単に曲そのものが絶対値としての「良さ」で感動を生むわけではないと思うのだ。
ランダムな要素、時代の空気、流行……夥しく数多くの不確定要素の集積として人はその楽曲に感動する。と、思うのである。
人の感受性を育むのは文化・時代・常識のバックグラウンドである。

100年前はともかく100年後の人が感動するには100年居残り続ける必要がある。
そこにはある程度「商業的に流行する」という要素も必要不可欠なように思える。
少なくとも今の社会基盤でモノを作るのであれば避けては通れない。
しかし、商業の求める短期的なベネフィットと普遍性は時にコンフリクトすることがある。

そして、時間の試練がどんなものかは、時間にしかわからない。
100年、1000年経ってみないとわからないのだ。
どんなに現時点で一世を風靡したところで、100年の時は何を遺し何を抹殺するかがわからない。


以上のことから、人間はなにしろ、一生懸命作る以外に…できることは何もないのではないか。
自分の力量を知り、何しろ懸命に、良いと思う作品を作るために精進する、それ以上の目標は作品の純度を濁し得るのではないか…

とはいいつつ自分だって、100年前の人にも、100年後の人にも感動してもらえたら嬉しいのである。人間なんてそんなもの、なんだろうか。
仙人にでもなれば悟れるものがあるんだろうか。

さて、さらには人の好みなんぞというのは千差万別である。
ピーマンを食えない人がいる。福永はピーマンめっちゃ好きである。
納豆が好きなやつとは仲良くなれない。福永は納豆を憎悪している。

…とまぁそんなことを考えていてふと、思い至る食べ物があった。
カレーである。

カレーというのは…スパイスが効いた民族料理である。
例えばとうがらしというのは辛い香辛料である。
辛い、というのは味覚ではなく痛覚のことであるらしい。
痛覚というのはリスクヘッジのために神経が用意した危機管理信号である。
そんなスパイスってやつを5種も6種もふんだんにブレンドする。
したがってなかなかにクセの強い食い物である。

にも関わらずカレーが嫌いって人をもうほとんど聞いたことがない。
幼少期から今に至るまで。
給食でカレーの日はみんな喜んでいた記憶がある。
辛いカレーが食えないという人はいる。
それはカレーが食えないというより辛いものが食えない人である。

あの人間の欲を全て叶えたような、糖分と脂質とをふんだんに摂取できるケーキなる食い物ですら、子供の頃から嫌いな人は嫌いであった。
大人になると、生クリームが重くて…なんて人は一層増えた。

もちろん万人が好きということはないにしても…カレーってかなり多くの人が好き〜食えるの範疇にある食い物である。
そして、流行りようが尋常じゃない。
各国に亜種まで発生しまくる始末である。

例えばビートルズだって、もしかしてたまたま芽が出なかった、流行らなかった可能性がなくはないと思う。今、歴史に残っているものと全く同じ作品を作っていたとしても。
この説はかなり多くの人の反感を買ってしまうかもしれないけど、生まれた時代が違えば、環境が違えば…。あり得なくはないと思う。

ただ、カレーレベルになるともはやそういう可能性が限りなく見えない。
「時間の試練」の超え方が段違いなせいである。
単に民族料理でターンエンドしたわけがない、と感じる。

もしかしたらビートルズがもっともっと、何百年も過去となり、それでも尚暮らしの中で人々に深く愛されていたら…福永は前言を撤回する必要がある。

…とまあ、カレーのことを考えると、ポップスって実際のところ存在するんじゃないかと思える。

かつて大航海時代、人々は香辛料を求めて海へ繰り出した。
海とは今でいう宇宙か、それ以上に危険で未知なものであった。
数限りない命が藻屑となり、わずかに生き残った船員の手に握られた数粒の香辛料は想像もできないほどの高値で流通した…
(妄想)

クミンもコリアンダーもナツメグもクローブも赤唐辛子も胡椒も
パッと食って「わあおいしい」となる味ではない。
でも、野菜、肉、塩、煮込むという行為、チャツネ、トマト、乳分
その組み合わせがなんか知らんけどめちゃくちゃ良かったのだ。

で、今パッと調べてみると本国インドに「カレー」という単語は存在しないらしい。
いくつも種類がある煮込み料理、それらをイギリス人が総称したのが「カレー」らしい…。

とはいえそこには一介のモノづくり人として励まされるムードがある。
なにしろ…砂糖や乳脂肪のような、パッと(動物の本能的に)求められるに決まっているような組み合わせでない、マジカルな組み合わせの料理がワールドワイドに(多少のカスタマイズはあるにせよ)老若男女を魅了し、時代を大きく超え、席巻している、という事実が少なくとも一つ、存在していると思えるからだ。

そしてその「パッとうまい」わけではないものの組み合わせ、時に危機管理信号であるところの「痛覚」すらも利用して人々に訴えるカレーの芸術性には奥深いものを感じる。
痛さや臭さをも折り込んだ上で、子供も喜ぶ食べ物。

福永は32年来で今がもっとも、ポップスについて考えているような気がする。
その引き金の一端となったのはあろうことかカレーという名前の癖の強い民族料理である。


そんなポップスを生み出す道すがら。

なにしろそういうものを生み出せるとしたらきっと人生の最終地点とでもいうような、ある種の老成、発酵が進んだ段階のことであろうと踏んでいる。
(このブログもいつか「簡単な単語の1行や2行」にできるのが…一つの目標である。今はまだ5000~10000字書かないと言いたいことも言えない。ポイズン。)

半月くらい前にミヒャエル・エンデに対するインタビューを本にまとめたものである「闇の考古学」を読んだ。
元々はミヒャエルの父で画家のエドガー・エンデの没後周年記念か何かで父の生前について伺おう、みたいなインタビューだったものが
初日にインタビュアーとエンデの「芸術論」とでも言うべき内容の対話がスパークし、結局4日にもわたる長大な対談となった。

その内容は芸術論…時に哲学、社会情勢、歴史、宗教、さらには神秘主義にいたってしまう。

面白すぎて一気に読み終えたのだがやっぱり「モモ」を生み出すおっさんというのはこれほどの奥行きがあったのだな、と妙に納得した。
「モモ」は小学校3年生の福永にも楽しく心に残ったが「闇の考古学」に出てくる内容は、当時全くのちんぷんかんぷんだっただろう。
今をもってしてももちろん、きちんとわかったわけではない。
少なくとも自分の理解の鋳型にはめなおして理解したつもりになっている、くらいのところだ。

その内容を掻い摘むには自分の中でまだ熟成が進んでいないので主たる内容についてはここで語らないつもりだが

本論とはやや外れた場所で、ちょっと面白い話が出てきた。

ドイツ人であるエンデはイタリアに住んで数年、インタビュー当時はもっぱらイタリアの古語(確かトスカーナ語だかなんだか)で演劇を書いているところだという。

そしてエンデによるとイタリア語の語彙というのは集団の中の体験に根ざした表現が多く、言語の上でイタリア人は皆家族的である。
だからドイツ語をイタリア語に訳そうとするとまったく別の響きになってしまうのだそうだ。

ドイツ語は逆に、語彙が多く、基本的には話者が1から紡いで表現を行う言語である。

もちろん言語の違いは人の思考にまで影響する。

イタリアに住み、イタリア語を使うようになってからというもの、ドイツ語を相対化することができるようになりドイツ語の理解度が遥かに深まった、というより...はじめてドイツ語のことが「見える」ようになった。

…という旨の話が出てきた。

福永はそれを受けて…人生ではじめて「ハンドパーカッションを真剣に練習してみたい」と思うようになった。
なぜ、ハンドパーカッションなのか。

福永はさまざまな楽器を使うものの、軸足はギターと決めている。
というか、決めていた。
と、いうのもさまざまな楽器への時間の分散は危険であると考えていた。
ドラッガーに言わせれば「選択と集中」である。
中途半端な練度の楽器を複数持つことは、結局一つも武器を持たないことのように思えたのだ。
今では案外そうでもないな、と思うのだが、当時はそのように考えていた。

そしてギターの練度が高まれば押し並べて音楽全体のことが見やすくなるはずである、と信じていた。
一点突破。限りある人生のソースを有効に使うために…。

だが…相対化!
あーそれはもう見落としてましたー!って感じである。

ここで楽器を言語に見立てた時に最も異なる語彙や文法で用いられていると思ったのがハンドパーカッションである。

ちょっと調べてみると例えばダラブッカなんかは紀元前から既に存在しており
叩き方や叩く箇所で出し分けることができる音色を
「火の音」「水の音」「土の音」と表現し
さらに休符のことは「空気の音」と呼ぶらしい。
ああ、空気の音。「鳴らさない」ことではない!
その感じ、音楽をやっている人ならみんなきっと体感している。
でも西洋の文脈と集積知に慣れすぎて「休み」の「符」だと思っている。

折しも1~2ヶ月前にコンガを購入した。
ハードオフで¥8000で売っているのを発見したのだが、その日は購入しなかった。
でかいし、重いし、部屋に置く場所がもうないし。
splice(権利フリーで高品質のサンプル音源を探せるサブスク)で落とせばいくらでも音色自体は手に入るし。
なんなら下手に録音するより音自体は綺麗だし。
まあ打ち込んでも良いし。

…と、思ったのだが、その夜半過ぎ。
夢枕のど真ん中にコンガが立っていた。

spliceで拾えばいくらでも音色が手に入るこの世で、にも関わらず楽器を震わせ、空気振動をマイクで収音・変換し…
そういう余計な手間をこれまで何度もかけてきた。

非効率・不服従をスローガンに掲げ、手間をこそ楽しみ、そうして人間の手の微妙なブレ、いわゆるヒューマニズムがどのように大切か、何は機械が再現でき、何は再現できないか、それはどのように良いのか、そういう体験的な知をおそらく多くの音楽家よりも重視して積んできた。

なのに!
でかいし、重いし。部屋に置く場所ないし??

…と、コンガにめちゃめちゃ説教されたのである。
うーんおっしゃる通りだ。

夢枕に立たれたすぐ後の休日、たまらず福永はコンガを購入した。
別にコンガ、叩けるわけでもないのに。
というかきちんと叩いたことないですコンガ。
わざわざツーバイ材で自作コンガスタンドまで作成した。

購入してみるとスッと腑に落ちるのを感じた。
賢い立ち回りをしようとしたものの、その選択は、本質的な自分の性分と馬が合わなかったのだ。
大人は、往々にしてそれができてしまう。福永も折々でこなしてしまう。
でも今回こそは、性の言い分を聞いてあげられてよかった。

と、まあ、元々そういう人間なので、何が選択と集中だ、である。
よくよく考えてみるなら、ドラッガーを参考にするのなら、そもそも音楽などという業態に参入しようとしていることがミスその1である。
例えば、半導体やレアメタルやLEDでも作った方が儲かるに決まっている。
(…もしかしてもう時代遅れなのかな…わかんない…)
選択と集中の「選択」の振る舞いがダイナミックにミスっている。
少なくとも期待値の高い、選択すべき職業とは到底思えないのだ。
(でもすんごい儲かっている人も確かに居るので…一概には言えない。いやむしろ「この世に一概に言えることなど何もない」ということだけが一概に言える唯一のことなのかもしれない。)

…で、まあ、コンガなのかダラブッカなのか、はたまたパンディロなのかは全く決めていないが、何かしらのハンドパーカッションを練習してみたいのだ。
おすすめのある方は是非知恵を貸して下さい。

エンデがイタリア語を相対化の媒体にドイツ語を理解したように、これもいつの日かポップス、真の意味での「童謡」を作るための道筋、というつもりである。

あるいはただミヒャエル・エンデのパロディをやりたい、ってだけなのかもしれない。

なんにせよモチベーションというものは、つまり感情というものは、動いたらその方向に流してみるべきである。多分、その方が良い。

その「感情なるもの」はきっとあくまでも心地よいランダム性のことであり、元来は完全なコントロール下に置けるようなものではない。
その証拠に、悲しみが嫌でも、ただちに悲しみが消えてくれたりはしない。
ある程度抑えることはできる。それは大人の嗜みである。
でも、感情は自身の内にあって自身の「完全なコントロール下」にはない。

そのランダム性、不安定性はきっと「心地の良い」ことである。
安定を至上のものとして「捉えさせようとする」社会の流れ・思想の流れに歯向かってでも、そういう認識を自分に植え付ける。
半ば強引にでも。認識は変えられる。世界はそうそう変わらない。

多分これで合っている。
その根拠として、今晩食べた質素な食事。
魚を欠いてしまった食卓は十分に美味しかったし、釣果を待つ間、福永は楽しかったという事実。
そして、魚を食べれなかったことを後悔していない、という事実。
帰ってきた松田くんの絶妙な表情がなんとも微笑ましく感じたという事実。


なんだか今日は食べ物の話が多いnoteであった。
こんなのを書いていたら、なんだかお腹が減ってきた。



本日はこれでおしまいです。

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