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統計的正しさは差別を正当化しない

世の中の「差別」がなぜ無くならないのか。様々な理由がありますが、差別の基本的な構造と、その背後に潜む「統計的正しさ」に対する危うさを整理したいと思い、筆をとりました。

差別の基本構造

世の差別の多くは、主に下記の構造を持ちます。シンプルな三段論法です。

1) 「ある属性」を所有するものは「ある行動」を取る可能性が高いと思われている
2) 「ある行動」を取る人は、周囲から不利益を受ける
3) そのため、「ある属性」を所有するものは、周囲から不利益を受ける

これだけだと分かりづらいと思うので、例をあげましょう。
「ある属性」=「イスラム教徒」。「ある行動」=「テロ」として読み替えてみてください。

「イスラム教徒」は「テロ」をする可能性が高いと思われている
「テロ」をする人は、渡航制限や口座凍結等の不利益を受ける。
そのため、「イスラム教徒」は様々な不利益を受ける。

これ、分かりやすい差別ですよね。
他の例もあげてみます。

「黒人」は「犯罪」を行う可能性が高いと思われている
「犯罪」を行う人たちは、就職や就学などの際に不利益を受ける。
そのため、「黒人」は様々な不利益を受ける。

これも分かりやすい差別に見えると思います。では何が問題なのでしょうか。

お分かりの通り、1) の部分 です。
最初の例は「全てのイスラム教徒がテロリスト予備軍ではない」ということ。後者の例は「全ての黒人が犯罪者ではない」という話です。あくまでも確率論でしかありません。
「圧倒的その他大勢」の平和的なイスラム教徒や黒人にとっては、自分は違うのになぜこんな扱いを受けるのか、という被差別感情を持つ事になります。

統計的正しさは差別を正当化しない

ここで重要な論点があります。それは、仮に上記の 1) が統計的に正しい場合、その差別はどこまで許されるのか、という点です。

下記は実際の統計的なファクトは不明なので、あくまでも「仮定」の話としてご理解ください。
仮に、イスラム教徒がテロを起こす率は他の宗教の信者に比べて有意に高い、黒人の犯罪発生率は他の人種に比べて有意に高い、ということが正しかったとしても、どこまで 1) の扱いが許されるのでしょうか。

私はこれは 原則的に許してはいけない と考えています。
それは経済的・合理的ではないかもしれません。スクリーニングのコストは増えますが、それでも、「近代社会」は、社会が公正に運営されるためにそのコストを負うべきと考えます。それが、中世ではない、近代に生きる我々の義務なのではないでしょうか。

女性専用車両の光と陰

都市圏では朝のラッシュ時に女性専用車両があります。これは、冒頭の差別の構造にそのまま当てはまります。

「男性」は「痴漢」する可能性が高いと思われている
「痴漢」は女性とともに電車に乗るべきではない
そのため、「男性」は一部の車両に乗れない不利益を受ける

確かに、男性から女性に対する痴漢は、女性から男性、もしくは同性同士の痴漢に比べて圧倒的に多く、「統計的正しさ」で言えば異論はありません
だが、大半の男性にとっては行動が制限されること、何より、痴漢予備軍として見られている事について感情を害されているのは間違いありません。

女性専用車両を擁護する声として「痴漢する男性がいるのが悪い」「男性と女性の電車内での犯罪発生率はぜんぜん違う」などを聞きますが、これは理由になりません。繰り返しますが、統計的正しさは差別を正当化しません
黒人の電車内での犯罪発生率が仮に高いとしても黒人は立ち入ることができない車両を作ってはならないことと同じです。
(差別とは強者から弱者に対してされるものであり、強者である男性に対するものは差別ではない・弱者である黒人に対するものとは違う、という論もありますが、就職や就学におけるアファーマティブ・アクションならともかく、電車内での取り扱いの観点では、この例における男性も黒人も同じです(どちらも強者であり弱者でもある))

「統計的正しさ」による差別を許容しないコストは社会全体で負おう

かように私は女性専用車は差別的だと思う一方で、痴漢という犯罪被害から、女性専用車に逃げ込みたいという女性の気持ちも痛いほど分かります。
そもそも、男女がすし詰め状態になっている朝のラッシュ時の電車は、あまりにも「セクシャルな空間」であることが本質的におかしいところであり、男性専用車両、女性専用車両、どちらでも良い人向け車両、の3つに分けるのが本来あるべき姿ではないかと考えています。(例えば「セクシャルな空間」である銭湯は男女別になってますよね。それと同じです)
そのために発生するコストは、皆が平等に負っても仕方がないという覚悟が必要です。これは、近代社会に生きる我々の義務です。

2018年、日本医科大学の入試で女性を差別的に減点していたことがニュースとして報じられました。
これに対して、女性は外科や救急等の労働強度の高い科に進むことを嫌がる人が多いから仕方がない、妊娠・出産でやめる人が多いから仕方がない、そういう同情的な論調も多く見られました。特に医師に対するアンケートでは65%もの医師が「理解できる」と答えています(医師の65.0%が東京医科大学の女子一律減点に「理解できる」)。

「女性は外科や救急等の労働強度の高い科に進むことを嫌がる人が多い」「妊娠・出産でやめる人が多い」私は正確なデータは持ち合わせていませんが、おそらくは「統計的事実」でしょう。

それでも。

私たちは、それを理由に女性に対する差別的扱いをすべきではありません。仮に、女性医師が増えると医療の現場が回らない、もしそういうことが起きるのであれば、女性でも働けるような環境を整える、医師を1.5倍に増やす。当然、そのためにコスト(医療費)が増えてもやむなしとする。その覚悟が我々には問われているのではないでしょうか。

テクノロジーが支配する未来にて

このような記事を書いたのは、今後の社会ではテクノロジーが進化していく中で、間違いなく、「統計的事実による差別」という社会問題が加速すると考えるからです。

現に、就職時の書類審査でAIの導入も進んでいます。統計も進む中で、性別、人種、肌の色、それらによって「統計的に」活躍する人・しない人が残酷なまでに明らかになっていくことでしょう。
生命保険では、ゲノム検査が導入される日も近いかもしれません。

そのような未来にて、私たちは、何を・どこまで判断基準として利用することを許容するのでしょうか。
そして、あなたはどう考えますか?

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