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アーティスト=繊細論について アーティストは作品に繊細なだけであって人間そのものはそうでもないから勘違いしない方がいい

「アーティストは繊細」と、慣用句のように言われます。
これについてちょっと誤解されている節もあるので、一応そっち側の人間として書いてみたいと思います。

確かに、アーティストは繊細です……作品に対しては
同時に、アーティストはそれ以外に対して信じられないほどガサツなことが非常に多いです。
まず、アーティストはたいていの場合自分自身に対してガサツです。
創作のために何日も寝ない、食事も摂らない、健康には全く気を使わない、生活全てが創作の二の次というアーティストは掃いて捨てるほどいます。
また、他人に対して共感性がなかったり、社会規範を逸脱していたり、社会の一員であるという自覚に欠ける人がほとんどでしょう。

アーティストという人種は、己の持つ繊細さの振り分けをほぼ100%作品につぎ込んでしまった人達だと考えればいいでしょう。
普通の人なら自分にこれだけ、家族にこれだけ、仕事にこれだけ、趣味にこれだけ……という風に、自分に与えられた繊細さをバランスよく振り分けていくのでしょうが、アーティストの場合、ミュージシャンなら音楽に100、作家なら物語に100、役者なら演技に100という風に、己の繊細さを全て一点に注ぎ込みます。
受け手は一般的に、その作品やパフォーマンスしか触れないので、『なんて繊細な”人”なんだろう』と感動しますが、実際はそのアーティスト本人が繊細なのではなく、その作品に対する姿勢のみ異常に繊細なだけです。
なので、作品に対する繊細さを自分にも発揮してもらえると期待して付き合ってしまうと十中八九地獄を見るでしょう……

アーティストが社会的には全然繊細ではないという例として、作家を見れば分かります。
今や社会を揺るがすほどの存在となった週刊誌。
中でも「週刊文春」や「週刊新潮」は、有名人のスキャンダルを詳細に暴き、対象のキャリア、人間性、社会的信用を徹底的に破壊するほどの力を持っていることで知られています。
そんな内容が疑問視され、こうした週刊誌に対し強い嫌悪感を持つ人も多いでしょう。
その発行元である文藝春秋、新潮社は文芸の世界では超名門であり、文春・新潮から作品を出版できればそれだけで一流といわれるほどです。

さて、文春・新潮から作品を出版している”繊細”な作家は、出版元が有名人のスキャンダルをネタに金儲けをしていることに傷ついたり、抗議したり、悲しんだりしているでしょうか?
そうした活動から得たお金で自分の作品が出版されていることに苦しんでいるのでしょうか?
もちろんNOです。
文春・新潮から出版している作家がそれらの出版社から刊行される醜悪な週刊誌のスキャンダルに苦言を呈したり、抗議している様子は見られませんし、そうした記事に傷付いて版権を引き上げたりした例を僕は知りません。
作家さんはきっとそんなことを考えたことすらないでしょう。
なぜなら出版社は自分の大切な大切な作品を世に出してくれ、それらを守ってくれる存在だからです。
極論すれば、作家は自分の作品(あるいは同業者の作品)さえ守ってくれれば出版社が何をしても関係ないと思っています。
自分が本を出している出版社が刊行する週刊誌で誰かが傷付いていることにダメージを受けるような”繊細”な作家は、たぶん一人もいないんじゃないでしょうか?

アーティストの繊細さは、あくまで作品に対してのみという文脈で理解するべきでしょう。

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