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TiktokとYoutubeから見えてくる人間観

2021年末ぐらいからtiktokにハマり、今ではもうYoutubeはほとんど観なくなってしまいました。
なぜかというと、tiktokの方が楽で面白いからです。
「なんでこんなに楽なんだろう?」と考え、Youtubeと比較してみると、UIや動画の質を通り越してアメリカと中国の人間観まで見えてきました。
個人的には面白いなーと思ったのでここでアウトプットしておきます。

手間

スマホでYoutubeあるいはtiktokを観るとき、どれだけ手間がかかっているかを気にする人は少ないかもしれません。
が、僕はYoutubeは手間のかかる動画サイトだと感じています。
なぜかというと、tiktokがアプリを立ち上げたら強制的に動画が再生されるのに対し、Youtubeは最低でも1クリック必要になります。
正直、それだけで「めんどくせーな」と感じてしまいます。
さらにさらに、tiktokはタテ仕様ですが、Youtubeはタテのままだと画面が小さくて迫力がありません。
しかしヨコで観ようと思うと、また画面の端をクリックして、スマホを横に持ち替えるというふたつの作業が追加されます。
アプリの立ち上げだけでいきなり楽しめるtiktokと、アプリ立ち上げ→クリック(動画再生)→クリック(ヨコ仕様に変更)→スマホ持ち替えという作業が必要なYoutube、どっちが楽で手間がかからないかは考える必要もありません。

ではそこから次の動画に移るとしましょう。
tiktokならスワイプ一発です。
Youtubeの場合、次の動画を探してクリックする一手間がかかります。
もちろんtiktokも検索する場合もあるでしょうし、Youtubeでも自動再生にしておけば勝手に次々動画が再生されますが、tiktokで動画を見終わるごとに新たに検索する人は少ないだろうし、Youtubeも律儀に全動画を最後まで観る人はいないでしょう。

結局、tiktokはアプリを立ち上げたら永遠にスワイプしてるだけ、一方Youtubeはクリックして、スマホを横に持ち替えて、新しい動画を探して、またクリックして……といろんな作業があって手間がかかります。
人がtiktokに流れるのは当たり前でしょう。

動画の性質

私見ですが、Youtubeは個性によるプロデュース(生産)を、tiktokは無個性によるリプロデュース(再生産)をよしとする風潮があります。
Youtuberは才能や特技を生かし、あるいはそれらのなさを特技にまで昇華させ、唯一無二のオリジナルを目指します。
仮に千万の模倣者が現れたとしても、先鞭を付けた開拓者は尊敬され、地位を保証されます。
一方tiktokkerは最初から模倣を目的とする傾向が強いようです。
また、ほとんどの場合オリジナルの存在ですら千万の模倣者の波に埋もれ、忘れ去られます。
開拓者自身もそれをよしとしているのではないかと思われます。
tiktok利用者で、有名なダンスを誰が最初に考えたのか、型にはまった楽曲の使い方を誰が最初に考えたのかを知っている人もいなければ、いちいち調べる人もいないでしょう。
波をつくりだす神を目指すのがYoutubeなら、その波を作り出した神ですらしぶきの一滴となって海の中に埋没するのがtiktokです。

tiktokとYoutubeに観る人間観

さて、ここまで考えるとそれぞれのプラットフォームからお国柄、そして人間観がぼんやりと見えてきます。
Youtubeは、人間への期待や信頼が見えます。
人間は本来個性的でクリエイティブであり、そこまで堕落した存在ではないはずだと考えるのがYoutubeです。
また、人間は唯一絶対の存在=神になれると考え、Youtubeはその可能性を提供しています。
そう考えるとアメリカ的であり、キリスト教的であるとも思えます(もちろん、キリスト教は神を目指す宗教ではありませんが)。
一方、tiktokは人間に対し1ミリも期待していません。
人間はクリックひとつすら面倒に感じる、どこまでも怠惰で横着な存在だと頭から決めつけています。
そうした人間観が、tiktokのUIに如実に反映されています。
また、tiktokは人間が唯一絶対の存在(=神)になることを求めていません。
人間は砂漠の砂の一粒、波のしぶきの一滴であり、オリジナルや開拓者ですら同じであると考えるのがtiktokの人間観でしょう。
やはりどこか中国的な考え方が匂ってきます。
模倣を是とし、唯一絶対の存在(=神)を最初から目指さないというという風潮は、アジア人にとっては馴染み深く安心できるものであり、西洋人にとっては新しいカジュアルな文化として受け入れられているように思えます。

まだ人間に期待しているアメリカと、とっくに人間への期待をやめた中国の対決

個人的に、Youtubeとtiktokの覇権争いは、まだ人間に期待しているアメリカと、とっくに人間への期待をやめた中国、双方の人間観の対決であるように思えます。
そして、どうやら中国の人間観の方が一枚上手であるようです。
さすが諸子百家を産んだ国……
何かを観るのも作るのも楽であるに越したことはないし、もしかしたら、神にならなくてもいいんだよという提案はキリスト教文化圏の人にとってはある種の救いになっているのかもしれません。
と、そんなことを考えながら僕はtiktokを観ています。

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