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「フル・メタル・ジャケット」レビュー

*ネタバレあり

公式動画

公式サイト、他

フルメタル・ジャケット - Wikipedia

公開

1987年

監督

スタンリー・キューブリック

キャスト

ジェイムズ・T・デイヴィス(ジョーカー) マシュー・モディーン
レナード・ローレンス ヴィンセント・ドノフリオ
ハートマン軍曹 R・リー・アーメイ
カウボーイ アーリス・ハワード
アニマルマザー アダム・ボールドウィン
エイトボール ドリアン・ヘアウッド
ミスター・タッチダウン エド・オロス

概要

「地獄の黙示録」「プラトーン」と並ぶベトナム戦争映画の金字塔。
ただ、正直かなり理解するのが難しい。
ネタ的に観るのが一番楽しいと思うが、せかっくの名作なのでネタも拾いつつできるだけこの作品の本質に迫ってみたい。
本作は前半と後半に分かれる。

前半

新米兵士たちが鬼教官に地獄のしごきを受けながら一人前のマリーンになるまでを描く。

後半

一人前のマリーンとして従軍しているジョーカーが戦地で仲間と再会し、その後地獄のような戦場を生き抜く。
これらを分けて観ていき、最後に本作の主題に迫りたい。


*以下、ネタバレあり!


前半

ベトナム戦争中、マリーンの訓練施設にて若者たちが一人前の兵士に鍛え上げられる様子を描く。
時期は分からないが、ベトナム戦争が始まったのが1961年、後半冒頭部が1968年なのでその間のどこか。
恐らく1966年、67年あたりだろう。
前半部の特徴としては、個々の人物のバックグラウンドを一切描かないこと。
また、視点もややジョーカー寄りではあるものの固定はされていない。
モノローグやナレーションも皆無で、誰の物語かをあえて分からなくしている節がある。

まず目を引くのはハートマン軍曹。
これでもかというぐらいの汚い表現で訓練兵たちを罵り、人格や尊厳を否定し、追い詰めていく様はもはやコントで、公開直後はTVなんかでもよくネタにされていた記憶がある。
ちなみに僕のボストン時代のアメリカ人ルームメイトの父親がマリーン出身で、ある日「フルメタルジャケットって映画観たか? 鬼軍曹いただろ? 教官ってみんなあんな感じだったってダッドが言ってたよ」と教えてくれたので、かなりリアルらしい。
また、ハートマン役のR・リー・アーメイは実際の軍人。

もう一人目を引くのはデブのレナード。
運動は全然駄目、行進も間違いまくり、軍服すら一人でまともに着られない、挙げ句の果てにドーナツを工具箱に隠しているのをハートマンに見つかりブチ切れられる。
しかもレナードの失態を訓練兵の連帯責任とさせられるので皆から嫌われ夜中にいじめを受けたりする。
そんな過酷な訓練で若者たちは殺人マシーンへと鍛え上げられていく。
あのポンコツレナードはなんと射撃の腕前が抜群で、ハートマン軍曹ですら感嘆するほど。
そうして皆一人前のマリーンとなり、卒業式(?)を迎えるのだが、最後の夜、レナードは愛用のライフルでハートマン軍曹を射殺し、その直後自分を撃って自殺する。
ここまでが前半部。

さて、じゃあこの前半部分って何がいいたいの? となるとなかなかに答えが見えてこない。
なぜかというと、ドラマがほとんど描かれてないから。
普通ならこの前半部で兵士たちの友情や葛藤、ハートマンへの怒り、仲間割れ、励まし、戦争や国家への思いや従軍への恐怖、葛藤、成長、家族への愛などをふんだんに描くだろうが、そういったシーンは皆無。
また、レナードの狂行についても事後処理や後日談は一切なし。
なんか淡々としていて、『ふーん、で?』と思った人も多いと思う(自分もずっとそうだった)。
だからこそ強烈キャラのハートマンやレナード、あるいはマリーン独特の歌などのネタ探しに没頭してしまうのだろう。
兵士たちがランニング中に歌う印象的な歌は「Marine Cadence」と言われ、実際に歌われるらしい。
こちらはリアルヴァージョン。

作中の歌は歌詞があまりにも卑猥。
内容が知りたい方はこちらを参照。

さて、この淡々とした(それでいてドラマティックな)前半部のハイライトはどう考えてもレナードの行為にある。
ではなぜレナードはハートマンを射殺したのか?
また、なぜその直後レナードは自殺したのか?
結論からいうと、彼が誰よりもマリーンとして完成した結果そうなったと考えるほかない。

訓練兵たちは敵を躊躇なく殺せる”殺人マシーン”となるべくしごき抜かれてきた。
ほとんどの者は訓練をそつなくこなし、どうにかこの地獄をやりすごそうとしてきた。
作中描かれてはいないが、時々上手にサボったりもしたのだろう。
そんな中、レナードは何をやってもダメで、自分なりに必死についていこうとするがどうしても迷惑をかけてしまう。
彼がこの訓練所を無事卒業するためには、サボっている余裕などなく、全身全霊で訓練に臨むしかなかった。
レナードはようやく射撃という特技を見つけ、なんとか無事配属先まで見つかった。
その結果レナードは他の誰よりも純粋に、骨の髄までマリーン=殺人マシーンとなってしまっていた。
そんな彼が真っ先に標的にしたのは自分自身だった。
だからレナードは自分という敵を真っ先に殺すため、一人トイレでライフルに弾を込める。
たまたまそれを見つけたのは自分に良くしてくれたジョーカー。
その直後、ハートマンが様子を見にやってくる。
そうだ、ハートマンも敵だ!
敵は躊躇なく殺さねば!
レナードはマリーンの本能でハートマンを射殺する(そのときの狂気に満ちた顔は正に殺人マシーンの顔!)。
そして最大の敵である自分を撃って目的を完遂した。
と、ここまで考えるとぼんやりと主題が見えてくる。
”敵”の殲滅を突き詰めた先にある破滅。
この辺を手がかりに後半を観ていこう。

後半

無事訓練学校を卒業し、ジョーカーはベトナムに記者として従軍。
後半冒頭の街はダナン海兵隊基地の近くの街だろう。
ダナンは縦に長いベトナムのちょうど真ん中あたりにある都市。

戦争当時、ベトナムは北緯17°線で南北に分断されており、そのすぐ北側(アメリカ側)の都市となる。
敵(南ベトナム)地に近い重要な都市だ。
また、すぐ北に「フエ」という古都があり、ここはクライマックスで戦闘が行われる場所。

ここもまた実際の戦争での激戦地だったらしい。

さて、後半部でずっと気になっていたのがまず音楽。
普通映画音楽は映像やストーリーを際立たせるための演出として使われる。
例えば同じベトナム戦争映画の「プラトーン」なら弦楽器を使った悲しげな音楽が印象的。
しかし本作では『なんじゃこりゃ?』という曲が特に後半によく使われていて、はっきりいってシーンに全然合ってない。
ここをまず留意しておきたい。

基地内での会議のシーン。
ジョーカーが「テト休戦は回避されるという噂が」と言う。
ベトナム戦争中、ベトナムの旧正月「テト」は毎年休戦が敷かれていたが、1968年ベトナム軍がそれを破り大規模な攻撃を仕掛けてきた(テト攻勢:史実)。
上司は一蹴するが、その日の夜にテト攻勢が開始される。
ということは作中現在は1968年1月30日。
後半の会議のシーンはこの日時をナレーションではなく流れで伝えるために挿入したのだろうか。
この辺のリアリズムがキューブリック的なのかもしれない。

テト攻勢後、ジョーカーはフバイに飛ばされる。

ジョーカーはフバイで取材をしつつ、かつての同期である「カウボーイ」の消息を知り、会いにいく(恐らくそこが古都フエ)。
ジョーカーは歴史的な建物でカウボーイに邂逅するが、この感動的なシーンで流れる音楽がまたミスマッチ極まりない。
まるで無能なスタッフがノリで決めたようなオールディーズが流れ、『なんじゃこりゃ?』と萎えてくる。
ここの理解も難解だが、後でまとめるので先に進もう。
この後ようやく戦争映画らしいシーンに突入するが、またまた途中でカメラマンが戦争を撮影し、兵士たちにインタビューするよくわからないシーンが出てくる。
これも史実で、ベトナム戦争は世界ではじめてTV中継されたらしい。
ただ、それをこの映画に挿入する意味がいまいち…というか全然わからん。
しかも古いパンクみたいななんか絶妙にダサいBGMがまたかかってるし……
たぶんここで離脱する人が多いと思う。
延々続くインタビューシーンが終わると、ようやくまた本格的な戦闘シーンに。
ここが最後の山場。
メイキングによると、このシーンは戦争で荒廃しそのまま打ち捨てられたロンドンの東のベックトンという街で撮影されたそうな。
実際のベトナムではない。
兵士がスナイパーに撃たれ、それを助けようとして次々にやられていくというのも実際の戦闘でよくあったことらしい。
特にマリーンは死んだ仲間を放置せず絶対に回収するという鉄の掟があり、それを知っているベトナム兵士は一人撃って動けなくし、その後仲間が負傷者(あるいは死体)を回収しにくるのを待って次々と撃ち殺していくという戦術を採っていたとか。
仲間(米兵)がなかなか回収に来ない場合はわざと死体を何度も撃って怒りを誘ったらしい。
この辺もキューブリック一流のリアリズムが出ている印象。

で、さんざん仲間を苦しめたスナイパーはまだ年端もいかない少女でしたというのが本作の山場。
ビル内に敵がいることに気づき、少女がスローで振り向きざまにマシンガンを撃つシーンは何度観ても鳥肌が立つ。
銃弾を受け瀕死の少女にジョーカーがとどめを刺し、兵士たちは戦火に燃える古都の街を、ミッキーマウスのテーマを歌いながら帰還。
なんでここでまたミッキーマウスなのか謎……

さて、なんかヘトへトになりながら最後まで視聴して見えてきたのは、キューブリックの”リアル”に対する姿勢や哲学。
本作はリアルを追求した戦争映画だが、キューブリックの描くリアルが映画の枠組みを超えてしまっているので分かりにくくなっている。
そのひとつが明らかにシーンと合っていない音楽。
悲しいシーンに悲しい音楽を流せば映画としてのクオリティは上がる、しかしキューブリックはそれを”リアル”ではないと思ったのだろう。
確かに、現実では状況に合わせて適切な音楽は必ずしも流れない。
感動的な邂逅の際に素っ頓狂なロックが流れることもあり得るし、悲惨な戦闘の後に唐突にミッキーマウスを歌いたくなるかもしれない。
ただ、そこまで突き詰めた”リアル”は物語性や映画への没入感を損なう恐れがあり、実際に本作では損なっているのだが、それも含めてキューブリックの演出と理解すればなんとなく溜飲が下がる。
その他退屈な会議のシーンだったり、なんでもない農道の行進、兵士のインタビュー、売春婦との交渉などなど、全てが”リアル”の断片であり、物語上必要か、重要かどうかではなくただ作中に存在しているだけだと考えればすっきりする。

また、前半部に驚くほどドラマ性がないこと(それぞれのバックグラウンドや、友情、努力、成長などが全く描かれていない)、伏線らしい伏線がひとつもないこと、ヒーローもいなければエピローグもないこと……これらもやはり”リアル”だ。
なぜなら、現実には映画のようなドラマもなければ伏線もないし、ヒーローもいないから。
そうしたリアルの断片(もちろんフィクションではあるが)をつなぎ合わせて、ぎりぎりどうにか映画という体裁まで組みあげた作品が「フルメタル・ジャケット」なのである。
ただひとつだけ本作にも主題と言えそうなものが存在する。
それはレナードとジョーカーの対比だ。
レナードは過酷な訓練の末に誰よりもマリーンとなったことで暴走し、破滅した。
それを目の当たりにしたジョーカーは、骨の髄までマリーンとなることにどこか抗っているようである。
それは軍人でありながら軍服にピースサインのバッジを縫い付けることからうかがえる。
しかし彼は最後の最後で、スナイパーとはいえ少女を射殺した。
ここでジョーカーは心の奥でぎりぎり抗っていた本物のマリーン=殺人マシーンとなってしまう。
それでも生きているジョーカーは幸せか?
エピローグはないが、どう考えても幸せになれるとは思えない。
無垢な人間を戦争に駆り立て、殺人マシーンに訓練した先にある生と死、それぞれの不幸、それぞれの地獄。
この辺に本作の主題がぼんやりと浮かび上がるが、キューブリックの積み上げた堅牢な”リアル”の壁に埋もれて掘り起こすことは難しい。

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