メガネ

仕事が終わって家に帰ると、買った覚えのないメガネが届いていた。付属の説明書には「世界がとても美しく見えます」とだけ書かれており、面白半分で、そのメガネを掛けて街を歩いてみると、いつもは道端に大量に落ちているタバコの吸殻や、ゴミ箱からはみ出して尚、無理やり押し込まれた空き缶やペットボトル、路上での酔っ払い同士の喧嘩、何一つ見当たらなかった(自分には見えなかった)。それだけではなく、仕事へ行くと以前から苦手だと思っていた人間や不細工な人間も居なかったし、試しにニュース番組を付けてみると、どの番組も子猫が産まれたような平和な話題しかやっていなかった。そのメガネにはゴミや暴力、苦しみ、賄賂、ドブネズミ、その他自分が思う「汚いもの」は全て綺麗なものに代わるか、映らなかった。初めはメガネに映っていない人間から話しかけられたり、見えていない誰かにぶつかることを恐れていたが、自分に話しかけてくれる人間など滅多に居なかったし、黙って前だけ見て歩いていれば周りの人間が自分を避けて歩いてくれた。そう分かると、やがてメガネを外すことが無くなっていた。そのメガネさえ掛けていれば世界の全てが綺麗だったし、わざわざ汚いものを見る必要なんてない。ずっとこのまま綺麗なものだけを見て、俺だけ美しい世界に生きて得をしたい。その為には、絶対に、誰にもメガネの存在がバレてはいけない。誰か1人にでもバレたら奪われるに決まっている。人間は皆、表面上でだけ他人の幸せを祝福し、その裏では嘲笑し、見下し、その幸せを奪う方法はないかと常に考えて生きている。この世界には美しい人間など存在しない。そう思い始めると、メガネを通して見る世界には誰一人居なくなった。これでいいと思った。これこそが求めていた世界だ。久しぶりに清々しい気持ちになって綺麗な川を見ながら一人でサンドウィッチを食べた。そのドブ川の水面にはサンドウィッチしか映らなかった。

#ショートショート

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