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雑記‐久しぶりのお葬式で

小さな葬式

今年(2023年)の春先、久しぶりに法事に出た。

ほぼ家族だけが集まった長い念仏もない小さな小さな葬式だった。火葬が終わり、亡くなった者(Kとする)の昔話を語り合ったり、死に際の様子を聞いたりした。その後は三々五々に分かれていった。一人になってから、あたしは色々と生き死について考えた。せっかく考えたので、ここに書きとどめておきたい。あいかわらず取り留めがないのだけど。

今日と明日

Kの死亡推定時刻は、夜の8時から9時頃だった。その日の夕方までKは普段通り昼食を美味しく食べていたし、日課の運動をこなしてもいた。顔色が悪いといった兆候は見られず、つまり死の寸前まで元気だった。
Kは日頃から周囲に気を遣い、善行は語れるが悪行は記憶を絞って出てくるかどうかといった人柄で、実際みんなが語った彼の昔話は、全てが彼の優しさを表すエピソードばかりだった。
あらゆる面から、Kが死ぬ理由が見当たらず、家族は悲しみ途方に暮れていた。

Kが生きていた今日。Kが死ぬ明日。そのラインは誰に分からない。しかし、そうなる前から「ラインがあること自体」、あたしは分かっていたはずだ。はず、だが……、その認識を常に持ち続けるのはとても難しかった

因果関係を探るという思考の癖

なぜKは死んだのか。突然死の理由はなんなのか!

頭の中でぐるぐると考えたが、長い時間がたっても結論は出ない。しかし考えるうちに、求めている結論とはずれるが「このように、因果関係を求めるのは人間の癖ではないか」と考えた。

Aという原因から、Bという結果が生まれる。
悪行を働いたから急に死んだ。
本人も気づけない病気のせいで死んだ。
実は霊に取り憑かれていて、その呪いが生命力を奪った…など。

世の中のほとんどは原因と結果の結びつきで成り立っているのかもしれないが、生き死にに関しては「決定的」な要因と「決定的」な結果を探り出すことはできない。探り出せなければ考えても仕方ない。だが、それでも因果関係を求めてしまう……。それが人間だ。
原因がわからなければ、原因を作りだす。
上に書いたような事柄を勝手に思いつき、その妄想に執着して安心感を抱く。
不条理に耐えられないのが人間だ。しかし、不条理を受け入れないと死を理解できない。
Kは理由もなく当たり前に死んだのだ。

ベッドに敷かれたシーツのように

ありきたりだが、生きているとはどういうことなのか、死んでいるとはどういうことなんか、ということもぐるぐると考えた。
死んだら終い……と言い切るのは簡単だけど、この種の断定は怖さから目を背ける人間の工夫であって、それが悪いわけではないけれど、今のあたしを納得させるものではない。
もう少し悩みたかった。

物質面はめぐるめぐる。朽ち果てた肉は他の生き物の栄養になる。風雪にさらされて粉となった骨は土と海に帰り、一部は鉱物となり一部はやはり生き物の糧となる。体は無駄なく「輪廻」する。我々の肉体は、もともとは他の誰かから借りたものだ。
意識はどうだ。借り物(客体)を寄せ集めた肉体と違い、意識は主体的なものだと思う。主体、我としての意識。これは「輪廻」するのか。多分しないだろう。我とは、この瞬間に存在するが、この瞬間が過ぎれば、無かったも同然のはかないものだ。

理解しやすいように肉体と意識を分けて考えてみたが、つきつめると二つはセットだと思う。対立的なものではなく不可分なものだ。
例えば、誰かから針を皮膚(肉体)に刺される。強い痛み(感覚=意識)から怒りや驚き(感情=意識)が生まれる。そして、反撃を試みたりあるいはその場から逃げたり(行動=肉体&意識)する。……という流れを見ても、肉体が無ければ意識は存在せず、意識が肉体の運動を決定している。

肉体と意識が分かちがたいものならば、合一の「それ」を名づけるならば仮に「命」としよう。
「命」は、巡るものでもあるし巡らないものとも言える。そうだとすれば、少なくとも歴史が生まれて以来、「命」は、巡るとか巡らないとかいう二項対立を超えて、ただあるように思う。

臆病な子どもだったあたしは、怖い映画を観た日の夜はなかなか眠れず、子供部屋の角っこや本棚と壁の隙間に何か得体の知れないものがいるように感じて、タオルケットを被り眠気がくるのを待っていた。天井の常夜灯の光がタオルケットを通り抜け、ほのかに布団のシーツを照らすのだが、暗さに目が慣れてくると、シーツのしわの形が明らかになってきて、しわをじっと見ていると、馬や犬などの動物や戦隊物のヒーローの仮面に見えてくる。そして、ある瞬間、しわが、人の顔、それも不気味な老人の睨み顔や目と目が大きく離れた頭髪がほとんどない女性の大口を開けた笑い顔に見えるときがあった。恐怖から逃げてもまた恐怖が現れる。あたしは急いでシーツのしわを伸ばし、怖い顔を消し去った。目を瞑り再び眠りを待つあたし……。そして朝が来た。

なんだか「命」とは、シーツのようだと思う。しわは何かを形作る。しわは妄想とも言えるし実物とも言える。
しわが伸びれば何かは無くなる。しかし、シーツ自体は「ある」。もしかしたら、「ある」と感じているだけなのかもしれないけれど。

確かにあたしに残るもの

彼の「命」は躍動していて、それを周りの人間は確かに感じていた。
躍動は消えてしまったけれど、周囲の人間の頭に残る一緒に遊んだ記憶、握った手の温もり・柔らかさという触感、沢山の写真と動画、捨てられなかった彼のお気に入りの物は「ある」。
それらは彼の一部で、本当はそういう一部の集合が彼だった。彼の一部は遠くてもう手が届かなくて、沢山の一部の「集合」だった「命」はもう過去のものになった。
生とは部分の「集合」で、死とは部分の決定的な「拡散」なのかもしれない。

残された我々は、彼の一部を握りしめながら、我々自身が「拡散」する「明日」のその日まで生きるんだろうなと思う。

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