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私的KAN論(仮)第5章    I`m songwriter welcome you to my song 〜変化するJ-POP黄金時代

1990年代も半ばを過ぎるとジャパニーズ・ポップシーンにも変化が訪れます。ミスチルは変わらず王座に君臨していますが、国民的バンド的立ち位置へ急激にシフトしていくことでの葛藤とダークな心情を余すことなく表現したAL「深海」をリリース、勝ち続けることへの苦しさを吐露しながらも、初期のポップでコンパクトな路線からは想像もつかないヘヴィネスを内包させたバラード「Everything」、佐野元春、浜田省吾、尾崎豊といったストリート・ロッカーたちの影響を包み隠さない「名もなき詩」とヒットを連発。初期の甘酸っぱいラブソングからシニカルでユーモアな視点を身につけサザンやユーミンとはひと味違う王道のJ-POPを発信していくこととなります。

スピッツも「ロビンソン」で全国的ブレイク、AL「空の飛び方」「ハチミツ」「インディゴ地平線」でミスチルとは違う文芸ポップの独自の地位を獲得します。個人的にですけど、スピッツはメディアに露出しないわけでもなく、ただ淡々と自らの楽曲とライブとブラッシュアップしていくことで現在の立ち位置を勝ち取った気がします。映画やドラマに多数使用されたり、後進バンドに多くのリスペクトを受けているのも音楽へのピュアな愛情が(バンドの)スタンスから容易に透けて見えるからこそだろうなと思ってます。そういえばブレイク前はROCKIN`ON JAPAN誌にて「ひなぎく対談」なんてくくりで対談してましたね。FISHIMANSやb-flower(京都のネオアコバンド)らとともに。あれはなんだったんだろう。僕はb-floerかな、この中で1番最初に知ったのは。京都ミューズホールでのライブも行ったし。

個人的にはエル・アールの失速が悔しかったですね。ポニーキャニオン移籍後のシングル「KNOCK`IN ON YOUR DOOR」がドラマの主題歌に抜擢され大ヒット、続く「BYE」「DAY BY DAY」とスマッシュヒットはありましたがメインソングライター黒沢健一の不調もあり97年に活動休止。ポリスターでデビューした時と比べてキャニオン時代はよりストレートに楽曲の良さを表現しようとしてたと思います。ミルフィーユのように幾重にも重なりシンフォニックな響きを追求してたようなものよりも、ひとつひとつの楽器のフレーズがくっきりと明確になり、余計なものを削ぎ落としてエッジのあるバンドサウンドんどを追求していったことは間違ってなかったと思います。ただヒット曲を出し続けることは難しいし、ソングライティングとヒットを出すことは別な才能だと思うんですよね。僕はついつい彼らの楽曲を聴いているとメロディックなパワーポップバンドとしてエリック・カルメン率いるラズベリーズを思い起こしてしまいます。ソングライティングの天才性という意味ではミスチル桜井和寿、スピッツの草野マサムネと並んでも遜色なく、芳醇かつ膨大なポップ・ミュージックのエッセンスを唯一無比のジャパニーズ・ポップとして作品に昇華させた黒沢健一の存在は今後J-POP史が検証されていく中でもっと評価されていくと思います。ちなみにジャパニーズ・ポップ=洋食を持論としている僕の中でKANの楽曲はカツカレー、ハンバーグ。エル・アール、黒沢健一の楽曲はナポリタン、クリームソーダってイメージなんですけどね。スピッツはもうちょい和風なんですよね。ハヤシライスとかトッピングなしのカレーライスってイメージ強いです。

バンドの話ばかりになってますが、この時代の男性シンガーソングライターの話にも触れてみたいと思います。フリッパーズ解散後ソロに転じた小沢健二はパーフリ時代(あえてこの名称使います)とは大きく異なる路線に舵を切り90年代ジャパニーズ・ポップの金字塔「LIFE」、「球体の奏でる音楽」と名盤をリリースしていましたが「ある光」を最後に突如渡米し2010年代に復活するまで、時折アルバムを発表するもののかつてのようにメディアに登場することなく長い沈黙に入ることとなりました。小沢健二はKANと近いようで遠いタイプのシンガーソングライターです。それは世代もあるだろうし育ってきた家庭環境も間違いなくあります。洋楽ベースに日本語のポップスを演っているという共通項はありますが同じスティーヴィー・ワンダーをルーツとしつつも「天気読み」と「プロポーズ」じゃだいぶ目指すものが違って聞こえますよね。東大と法政大学、東京(神奈川県出身)と地方の差(どちらが上という話ではないです)は2人の作品性の差として楽曲にあらわれてると思うのです。

そうだ。最後の渋谷系という意味でカジヒデキは忘れちゃいけません。もともとはBRIGEというネオアコ〜ギターポップバンドのメンバーですが解散後ソロに転じます。BRIGEは当時再評価が進んでいたソフトロックなフレイヴァーで局地的人気を博してましたが、全国的なブレイクは果たせずに終わります。そんな状況を払拭するかの如くカジヒデキはNTT DOCOMO(広末涼子が出てました)やキューピーマヨネーズといったCMソングを手がけ、スウェーディッシュ・ポップブームの先駆者としてトーレ・ヨハンソンや小山田圭吾との共作を含む傑作アルバム「ミニスカート」をオリコン4位に叩き込みます。ホフディランのワタナベイビーとのコラボ「ポップソングを作ろう」はウィットが効いたノベルティ・ソングで個人的には大好きな曲でした。

中村一義は初めて聴いた「犬と猫」には衝撃を受けけましたし、デビュータイミングからのROCKIN`ON JAPANの激推し猛プッシュでチェックしてないのやばいぜな雰囲気は当時某レコード会社のしがない営業マンだった僕には眩し過ぎました(羨ましいという意味で)。たしかTOWER RECORD広島店の試聴機で聴いたのが初めてだったと思います。当時僕はルイ・フィリップやロビン・ヒッチコックが好きだったりBECKもチェックしていたので宅録ローファイなアーティストがメジャー・フィールドでもいよいよ普通に出てきちゃう時代なんだと心が震えたわけです。ファーストアルバム「金字塔」は神戸のCDショップで買った記憶があります。広島エリアは1年担当し、97年4月から神戸エリアに異動になった僕は三宮で主要担当店を訪店後、よく塩屋に行ってました。そう、大江千里の「OLYMPIC」に収録されてる「塩屋」の舞台となった場所です。小さな街で神戸ローカル感しかないところでしたがこの街から見える海の光景はあまりに普通過ぎて田舎育ちの僕にはちょうどよかったのです。

神戸や大阪のエリア担当を経て僕は1998年の2月に転勤で東京に転勤で移住してきました。すでに渋谷系は終焉してましたがその残り香はまだギリギリあった時代です。恵比寿に当時勤めていた会社のマンションがあり、都内23区にしては破格の値段で住むことができましたがマンションとは名ばかりのアパートで四畳半スペースにユニットバスという狭苦しいタコ部屋状態。ベッドを置くとほぼ動けるスペースは皆無だったので暇さえあれば渋谷に繰り出し宇田川町を中心に中古レコード屋ばかり行ってました。ドンキホーテ近くにあるZARAは当時渋谷ブックファースト店で在庫も多く大好きな本屋でよく時間を潰していたものです。帰りは明治通り沿いのラーメン屋山頭火でとろ肉塩ラーメンを食べるのが定番だった記憶がありますね。ろくに知り合いもおらず、休日もやることないのでひたすらルーティーンのごとく渋谷をウロウロしていました。初めて下北沢QUEにライブを見に行ったのもこの頃です。メジャーデビュー直前のギターポップバンド、advantage LucyやNONA REEVES、クラムボンのライブを見に出かけた日々。ネクスト渋谷系な扱いで彼らの注目度も増していったタイミングでした。

1999年の春頃から僕は音楽フリーペーパーの編集に関わるようになりました。広告出稿も自分で営業回ってとってきて、取材/ライティングとやらねばならない立場になります。1番最初に取材したのはメジャーデビュー決定したばかりのadvantage Lucyです。インタビューなどしたことがない僕は異常に緊張したのを覚えています。場所は江戸川橋のリハーサルスタジオで、宣伝担当は小沢健二などを歴任してきた小泉京子さんでした。気の利いたインタビューにせねばと色々頭を巡らせますが、考えすぎて失敗。取材は15分ほどで終わりました。「ああ、インタビュー取材は向いてないな」と思った瞬間です。ああ思い出したくない。

広告で予算を獲得していかないとフリーペーパーは出せないので、好きでもなんでもない取材もこなさねばならないこともありました。あるバンドを取材すると記事稿扱いで7万円もらえると聞きつけ、その話を決めてしまいました。取材場所は神奈川の外れの海沿いの街(どこか忘れた)、全身TATOOのコワモテバンドでしたが会ってみると気の良いにいちゃんたちでした。話しをしていて楽しかったのですが音楽的接点のない取材ほど辛いものはないです。

そんな取材ばかり続けててもテンション上がらないのでメジャーレーベルに電話して広告資料をもってプレゼンする日々。最初の1年はほぼ相手にしてもらえなかったと思います。ようやく相手にしてもらえるようになるまでだいぶ時間はかかりました。編集長として機能し始めるのは2000年に入ってからだったと思います。渋谷や新宿、下北沢のライブハウスを夜な夜な駆け回る日々でした。僕の中の編集方針のひとつとして「どの媒体よりも早く有望な新人を見つけること」をテーマにしていました。予算の面でROCKIN`ON JAPANには絶対勝てないし、ライティングや取材にしても見よう見まねで始めたに過ぎない自分にとって行動力で対抗するしかありませんでした。今考えるとこの時期こそKANに取材オファーしとけばよかったのです。ところがリスナーとしてもっとも離れていたタイミングでもありましたので考えることすらなかったのです。

1995年以降はHi-STANDARDに代表される新しい世代のエモいメロコア系のパンクロック、もしくはMISIAを始めとするR &B系の女性シンガーが世間的にも受け入れられ始めるようになりました。93〜94年頃をピークに渋谷系と呼ばれるお洒落でポップでシャイニーで、、と雑誌「Olive」や渋谷周辺の雑貨屋カフェおよびレコ屋を中心に形成されていた文化は形を変えていくことになります。おそらくそのDNAが拡散され、1番近い匂いを放っていたのが当時の下北沢ギターロック・バンドシーンだったのではないでしょうか。そこからはBUMP OF CHIKENやGOING UNDER GROUNDがメジャーデビューを飾ります。いつの間にか90年代前半を席捲した渋谷系ミュージシャンは一部を除いてシーンの中心から徐々に外れていきます。


そんな風に時代が大きな変化をしていたこの時期にKANが放った1曲。僕の中でこの曲こそがその後のKANの人生を決定づけた1曲だと思うのです。


I`m songwriter welcome you to my song

眠れぬ晩の思いつきで言葉がまだないのです

La la la la la la la

こんなメロディはどう


KAN Songwriterより


1997年の8月にリリースされたこの曲は翌年ワーナー・ミュージック移籍第一弾「TIGERSONGWRITER」に収録されています。この2〜3年のKANはコンスタントに作品は発表していましたが前のようにアルバムチャートの上位にランクインすることが難しくなりつつある時代でした。1993年発表のアルバム「弱い男の固い意志」が最高13位、94年リリースのアルバム「東雲」が24位、1996年の「MAN」が最高12位、「TIGERSONGWRITER」も24位です。とはいえこのチャート推移だけでセールスダウンとはなかなか言いづらいのがこの時期のJ-POPで数字の規模が違います。むしろコンスタントにアルバムチャート左ページ上位にランクインしていた、という解釈が正しいと思ってますがいかがでしょうか。


そしてこの曲こそ、KANの裏代表曲だと長年僕は信じ続けてきました。歌いたいことは言葉にできない。ならラララでいいじゃんという潔さ。メロディを紡ぎ、言葉をのせて歌い続けることの業の深さをここまで明確かつ力強く宣言したシンガーソングライターは今に至るまで(少なくても日本では)皆無です。ピアノとストリングスを基調にした美しくも切ない旋律はメロコアやR &Bが主流になりつつあったJ-POPシーンで異彩を放つ楽曲だったと思います。もちろん富田ラボに代表されるようにMISIAの「Everything」のような壮大なバラードはありましたが。



I`m songwriter 何のあてもなく

迎えるべき運命に言葉送りたいのです

愛すべき人に まだ見ぬ君に

自信も声も枯れた自分に


ここまでシンガーソングライターであり続ける自分の運命を赤裸々に歌った曲を僕は他に知らない。そもそも歌い続ける行為に「あて」などないに等しいのです。もちろん表現者として過信にも近い自信はなきゃやってられないのが真実だと思うんですよね。でも実際のところはどうでしょうか。特に今の時代、You Tubeやサブスクリプションの再生回数は可視化されてます。渾身の1曲が再生回数わずか3桁とかまったくお話しにならない状況が続いたら、、と思うと「自信も声も」どころか生きることすべてにおいて枯れ果てても仕方ないと思うのです。でも歌うんだよ、と自分に言い聞かせるように叫ぶKANの姿は僕の中では誰よりもロックンローラーに移っています。もちろん今も。

J-POPにとって1番幸せだった時代は92〜93年頃だったように思えます。レコードからCDへと完全移行を果たし、CDシングルという安価でコンパクトなメディアは当時のティーンネイジャーにとっても雑貨感覚で買えるアイテムだったのではないでしょうか。大学生やサラリーマンにとって見ればTSUTAYAで借りるにちょうどいいし、「カラオケ」というコミュニュケーション・ツールを駆使していくには「重すぎない・場所をとらない・長くない(アルバムのように)」ライトに扱えることもJ-POPブームを助長させる要因だったと思います。同時にそれはロック・バンドのカジュアル化が進んでいくのですが。またその反動が2010年代初頭に起こる「アイドル戦国時代」を巻き起こす要因になったと思いますがこの件に関しては別章に譲ります。


Mr.Childrenのブレイクは「ミスチル幻想」を多くのバンドマン、およびスタッフに与えてしまい幾つかのバンドはチャンスを得て今も現役で活動してると思いますがまったくもって見当違いも多くあったのではないでしょうか。この「幻想問題」はあらゆるジャンルにあてはめられるのですが。

そして90年代は終わりへと向かっていきます。1999年のカウントダウンは記憶によると渋谷クアトロで年を越した気がします。イベントに誰が出ていたのかはまったく覚えてません。フリーペーパー編集のつながりでどこかの事務所主催のイベントに誘われた形だったと思います。なんとなく打ち上げに参加して朝までクアトロ裏の通り沿いにあったお好み焼き屋で呑んで朝方の陽射しが妙に痛かった。なんとなくライブに行ってなんとなく打ち上げに参加してもつまらないんだなって当たり前のことを思いました。興味のないことはGROOVEしない。そりゃそうです。


そんな90年代の終わりにリリースされたKANのアルバム「KREMLINMAN」は1曲目に収録されている「ロック試練の恋」に代表されるようにサウンド的には激しめの曲が多い作品です。歌唱法含めまるで槇原敬之な「車は走る」も収録されていますが、当時の移り変わっていく音楽シーンをそのまま反映しているかのようにバラエティに富んだ楽曲が並んでいるような印象もあります。バンドやR &B系のサウンドがチャートの上位を占める中、シンガーソングライターにとってアウェイな時期だったこともアルバムに影響を及ぼしているのかもしれません。

この90年代の終わりには宇多田ヒカルがデビュー。椎名林檎、aikoらの躍進もあって女性シンガーソングライターの時代が始まることになります。次章はそんな時代背景とその時期のKANについて触れていきたいと思ってます。

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