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ビートルズと日本のつながりは?武道館公演からバンド解散後のソロ活動までについて

今なお多くの人を魅了するビートルズの楽曲。

日本に関連したトピックスでは、1966年に行われた日本武道館での日本公演が真っ先に思い浮かびます。


この記事では、そんなビートルズの最初で最後になった武道館での日本公演のエピソードを中心に、ビートルズ、そしてソロになった各メンバーと「日本との関わり」についてご紹介します。


ビートルズ日本公演 at 日本武道館

ジョン・レノンが初めて日本に来たのはビートルズ時代の1966年。

羽田空港に到着し、法被を着たビートルズのメンバーが、飛行機のタラップを笑顔で手を振りながら降りてくる、有名な写真を見たことがある人もいるでしょう。

当初は、同年6月28日の夕刻に到着の予定でしたが、台風4号の影響でフライトが大幅に遅れ、ビートルズのメンバーが着いたのは翌29日の明け方、3時40分のことでした。

ちなみに、メンバーが羽織った法被は、当時JAL(日本航空)のファーストクラスに搭乗した乗客に配られていたもの。

JALの法被についての補足
法被は機内用の「部屋着」として配布され、気に入った方には別途販売しており(高島屋のメール・オーダー・フォームに記入する)、値段は5ドル50くらいだったそう(出典:『ビートルズ来日学』宮永正隆・著 元日本航空客室乗務員(パーサー) 植村昌弘氏の発言より)。

ビートルズが着用したJALの法被の真相

ビートルズは、来日するに際して直前の公演地であったハンブルクから日航機412便「松島」に搭乗。アンカレッジで乗り継ぎ、そこで台風の影響により足止めを喰います。


法被に関しては、ハンブルク~アンカレッジ間でもすでに機内で着用していました(ポールが「トランジット中、このまま着ていてもいいか?」と訊いたそうですが、規則でいったん回収)。

そのアンカレッジでのトランジット中に、JALの広報部長からアンカレッジ~羽田間のクルーに「何か日航の宣伝になるようなことができないかね」「たとえば法被を着て降りてくれればいいんだけどなあ…」といったことがささやかれます。

それを言付かったのが先の植村氏(パーサー)で、出立後の機内サービスが終ったおりにビートルズの面々に勧めましたが、あまり興味を示さない。その後、当時ファーストクラスに設置されていたラウンジにポールが飲み物を頼みに来たときに再度法被を勧めたら、羽織ってくれたといいます。

ただし、あくまで機内の中だけの話で、実はビートルズの各メンバーはタクシング中(飛行機が着陸して滑走路の上を走っているとき)はスーツ姿だった。その到着までギリギリのところで、ビートルズに法被を勧めたのが客室乗務員のコンドン聡子(旧制・川崎聡子)さんでした。

以下、コンドン聡子さんの当時を振り返った発言の引用です。

(前略)「もうこれが最後のチャンス」と思って、私がジョン・レノンの席にサッと行って、しわを伸ばした背広をお返しするついでにそっと「降りるときにハッピ・コートを着ていただけたら、日本のファンはきっと大喜びすると思いますよ」と差し出したんです。彼は意外にも“Ah,good idea!”って言ってサッと取ってくれました。で、ひょっと見たら植村さん(パーサー)が他の3人にもサッサっと配っていたという感じでしたね。

出典:『ビートルズ来日学』宮永正隆・著

「最後のチャンス」とあるが、なぜもっと早くに打診しなかったのかというと、ビートルズ・マネージャーのブライアン・エプスタインが「勝手なことをしないか(例えば、サインをねだるとか)」目を光らせている感じがしたから。

「しわを伸ばした背広をお返しする」とあるのは、搭乗時にジョン・レノンがコンドンさんに「ハンブルクから着たまんまなんだ。シワだらけだから何とか伸ばしてもらえないか」と頼まれたもの。

というわけで、上記のような諸々のエピソードがあった上で、有名な「法被姿でタラップを降りてくるビートルズ」のシーンが誕生したわけです。

なぜ日本武道館でコンサートを行ったのか

ビートルズの日本公演は、6月30日~7月2日の3日間で計5回(夜、昼・夜、昼・夜)行われました。

会場となったのは日本武道館(東京千代田区)で、ビートルズの公演は武道館初のロック・コンサートとなりました。


では、一般的なコンサートホールではなく、なぜ武道館が会場として選ばれたのでしょうか?

それには、ビートルズ側から提示された「最低でも1万人収容できる会場」という条件が大きく影響しています。

当時、そのような大きなホールはなく、雨天中止にはできないので、特に梅雨の時期に野外でやるのもNG。という諸々の条件を勘案した結果、会場の候補となったのが日本武道館でした。


ビートルズに武道館を使わすな!

武道館といえば「ロックの殿堂」というイメージがあり、そこでコンサートを行うことに違和感をもつ人はいないでしょう。

しかし、当時、日本武道館でポップ・ミュージックの演奏を行ったアーティストはおらず(クラシックは、前年の1965年7月に音楽家レオポルド・ストコフスキーが日本フィルハーモニー交響楽団を指揮したコンサートを開催している)、「なぜ、ビートルズを武道館で演奏させるんだ!」と批判する人も少なくありませんでした。


主な理由は日本武道館の成り立ちにあり…

日本武道館創建の目的は、我が国伝統の武道を、国民とくに青少年の間に普及奨励し、武道による心身の錬磨を通 じて健全な育成を図り、民族の発展に寄与するとともに、広く世界の平和と福祉に貢献することにあります。

出典:日本武道館「創建の目的」

ということで、日本古来の武道を行う神聖な場所で、よくわからん海外の若者にロックなどという音楽をやらせるのはけしからん!というのが主な理由だったようです。

右翼の人たちが反発をしたほか、例えば、政治評論家の細川隆元はテレビ番組(時事放談)で、「あんな連中に外貨を与えるな」「公演は武道館ではなく夢の島でやれ」と罵倒しました。

この番組を見ていた時の首相・佐藤栄作が秘書官に「武道館の使用」に難色を示す旨を語り、これが読売新聞社主で日本武道館会長(当時)の正力松太郎にも伝わりました。


読売新聞の社告で武道館使用の正当性をPR

読売新聞社主・正力松太郎の意を受けた、招聘元だったキョードー企画の永島達司がロンドンに飛び、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインに会いに行きました。

しかし、これは反対派を封ずるためのパフォーマンスとして正力が頼んだことで、その後、正力本人が政治家や右翼を説得。警察庁にも国力をあげて警備をしてくれるよう口説いたといいます。


そして、本番約1か月前の6月9日、武道館側の声明として、読売新聞の社告に以下の文章が掲載されました。

このたび女王から勲章を受けられた英国の国家的音楽使節、ザ・ビートルズが読売新聞社の招きにより、初めて日本で公演することになりました。主催者側は、その世界的な人気と国際親善の視点から日本最高の施設をもち1万人以上を収容、しかも警備、音響効果の面からも万全を期せられる会場を物色していましたが、これらの条件を具象しているところは日本武道館以外には無いと判断して、使用許可を打診してきました。
しかし武道館側としては、武道の殿堂であり、青少年の心身育成の道場でもあるので再三おことわりしましたが、主催側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することにしました。
ー財団法人日本武道館理事長 赤城宗徳ー

出典:『読売新聞』1966年6月9日

「女王から勲章を受けられた英国の国家的音楽使節」「英国側からも重ねて強い要請」と記し、国家間の一大事業であることをアピールし、保守派たちを収めました。

ちなみに、ここで書かれている「勲章」は大英帝国勲章=MBE(Most Excellent Order of the British Empire)勲章のことで、日本公演の前年、1965年にエリザベス女王から授与されています(後にジョン・レノンは返還)。

劣悪な音響環境

というわけで、大騒動となったビートルズの日本公演ですが、当初の予定どおり、日本武道館で全公演が行われました。

上でご紹介した読売新聞の社告にも、なぜ会場が日本武道館でなければいけないかの理由について書かれていますが、一点気なったのが「音響効果の面からも万全を期せられる会場」のくだりです。


ビートルズの日本公演が行われた際の音響設備は、お世辞にも充実しているとはいえなかったからです。

「日本武道館」の名の通り元来は音楽を主目的に建設した施設ではないため、コンサートホールとしての音響性能では音楽演奏を主用途に設計されている専門のコンサートホールに遠く及ばず、良好な音質で観客に聴かせるのが難しいと言う欠点があり、舞台音響設備を持ち込むなど別途対処する必要がある。実際、ザ・ビートルズの来日公演では、ステージ上のギターアンプの生音と会場据付けのPA装置を通したボーカルだけで行われたことから、結果として演奏が全く聞こえない席が存在した。

出典:wikipedia

上の引用文にあるように、「演奏が全く聞こえない席が存在した」のをはじめ、6月30日夜の公演では、マイクのヘッドが固定されておらず、ポール・マッカートニーはぐるぐる回るマイクの位置を何度も直しながら歌ったりしています(これは武道館というより、ステージスタッフの問題だと思いますが)。

ビートルズ解散後の各メンバーと日本の関り

ビートルズとしての来日は、1966年が最初で最後となりましたが、ビートルズ解散以降、各メンバーは日本にやってきています。

それぞれ簡単にご紹介します。

ジョン・レノン

もっとも日本と強いつながりを感じられるのがジョン・レノンです。そもそも奥さんが日本人のオノ・ヨーコで、お忍びで何度か来日しています。

特に別荘があった軽井沢はお気に入りだったようで、何度も足を運んでいます。


「ジョン・レノンと日本の関り」についての詳細は、以下の記事をご参照ください。

ポール・マッカートニー

ソロとしてもっとも日本公演を行っているのがポール・マッカートニーです。

これまでに、1990年、1993年、2002年、2013年、2015年、2017年、2018年に来日。ドームツアーなどを行っています。
(2014年は体調不良のため中止に。翌2015年に代替のコンサートを開催)


ちなみに、ポールはビートルズ解散後に結成したバンド「ウイングス」で1975年、1980年に来日する予定でしたが、前者はポールの麻薬の前科で、後者は日本入国時の大麻所持で逮捕されいずれも中止となっており、1990年のソロコンサートはファン待望の来日公演となりました。

ジョージ・ハリスン

ジョージ・ハリスンと日本との関係で忘れないのが、1991年に開催された日本でのコンサートツアーです。

ジョージは17年間コンサートツアーから遠ざかっており、そんな彼をツアーに誘ったのは、盟友のエリック・クラプトン。

実は同じころ、クラプトンは息子を事故で亡くしており、そのとき親身になってフォローしてくれたジョージに対し、「返礼のようなかたちでツアーに連れ出した」と後にクラプトンが自伝で語っています。


そんな二人が、ジョージのライブ活動復活の地として選んだのが日本でした。

上のインタビュー動画にもあるように、アメリカやヨーロッパではなく日本を選んだのは、「日本の観客のスタンス」を好意的に感じていたから。ブランクのあるジョージの復活ステージとして、最良の場であるとクラプトンが提案し、ジョージが同調して実現しました。
(公演はクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた)

リンゴ・スター

ビートルズのメンバーで解散後、最初に日本でコンサートを行ったのはリンゴ・スターでした(1989年、「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」で来日)。

以後、同バンドで1995年、2013年、2016年に訪日し、コンサートを行っています。


「リンゴ・スター×日本」の組み合わせでいうと、 Takara「すりおろしりんご」のCMも印象的でした。

リンゴをすりおろす、りんごを擦ったー、リンゴ・スター、ということで、B級おやじギャグ的なノリですが、なかなか味わいがあります(リンゴだけに)。ちなみに、撮影時にご本人に日本語における「リンゴ・スターと、リンゴ擦った」の語呂合わせについて説明したそうです。

さいごに

この記事では、ビートルズやその各メンバーと日本とのつながりを軸に、いくつかのエピソードをご紹介しました。

2024年、外国語学部に新設する国際日本学科でも、日本を軸に世界を考察し(その逆も同様)、それぞれの視点から対象について考える学びを実践します。


「言葉や文化など、世界に発信したい日本のもの」「大好きな海外の文化と日本の関係について」など、国際日本学科では、相互的な視点をもち、幅広い学びにアプローチできます。

この環境のもと、自身の興味、関心から、ぜひいろいろなことにチャレンジしてみください!

【国際日本学科・特設サイト】

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