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さらば、名も無き群青たち(2)

 周囲が急に慌ただしくなり、下宿先の窓から迷い込んで来た蚊でさえも、自らの先々に待ち受ける事柄についてを悩んでいる様に見えた。
行く先も、帰る先も分からぬままに止まっては首を傾げ、飛んでは首を傾げ。それは世間が秋を迎える準備が整った事を、見て見ぬ振りした軟弱な精神に由来する行動だった。
つまり、我々は同類である。


 八月のカレンダーを捲る僕の寂しい背中を余所に、珍しく地に足を付け、夏を謳歌していた例の友人からの着信を認めれば、いくら面倒でも出ない訳にいかない自分の思考が、また面倒に感じる事がある。往々にしてあるのだ。
「昨日カナと難波まで出てんけどな、それはもう高い物ばっか選ぶもんやからさぁ......」
そんな戯言を以て、財布から札束を出す代わりに、自らの快楽を出し惜しむでもなく話してみせる。それも、出来るだけ暇そうな奴相手に。

 盆の合コンの際、彼がセッティングの為にと連絡を取り合っていた女、カナという名前しか記憶に残っていない。
 僕が途中で抜けた後、蕎麦屋の破天荒な娘は知らぬ間に姿を消して、結局残された二人が結ばれる事となったのだが、なし崩し的にその結果に落ち着いたというよりも、もとより彼等の思惑する通りとなった、という方が自然だ。そして、そんな意図を滲ませる二人の横で、正面の彼女を直視出来なかった僕の愚行たるや....。


「昨日、お父ちゃんが腰いわしてもうてなぁ。九月いっぱいは、念の為に休み貰おうと思ってるんよ。やから、言い難いねんけど––」

「バイトは他にもありますから、大丈夫です。店長にはしっかり休んで貰って下さい」

「秋に入ったら、そらもう忙しくなるやろし、また必死に自転車漕いで貰わなあかんねぇ。折角、大学休みの書き入れ時やのに、こんな事になってもうて。近所の加藤さんの所も......」

ただただ電話越しで頷く僕は、やりかけの課題を前にして、その心はどこかに飛んでしまっていたらしい。女将さんの長い長い話の結末を、危うく聞き逃すところだった。

「––そういう訳でな、今からエミに八月の給料持って行って貰うから、ちょっとの間、家でのんびりしといて頂戴ね」

その言葉に驚いた僕は、色々と言い訳を付けて彼女の訪問を避けようとしたのたが、時既に遅し。女将さんの「エミ!ちょっと待ちィ!」という叫び声が虚しく響き渡って、数秒の沈黙の後に呟いた一言で、哀れ項垂れるに至った。
「行ってもうたみたいやなァ。どないしよ」


 滅多に鳴る事のない我が下宿先のインターフォンが、彼女の姿を鮮明に映したと思えば、先程部屋に入って来た蚊ですらも、同情的な面持ちで僕の方を見ていた。
 先日の合コンの件で、何かしらの嫌味を言われるのは分かっていた。覚悟していた。なにより、液晶の奥に立つ彼女の表情がそれを物語っているのだ。恐る恐るドアに手を掛ければ、
「おつかれさま」と含みある声が僕を迎えた。

「男の一人暮らしの割には、片付いてるのね。それに......普通の部屋って感じ。もっとこう、趣味の良い置物の一つでもあると思ったの」

「あのね、そりゃ偏見だよ」

「金持ちに対する偏見?」

「僕への偏見だな。どちらかといえば」

「でも、あなたの実家にはやっぱりあるんでしょう?ほら、熊が鮭を咥えてる大きな置物が」

鮭を咥えてる熊の姿を、なんとか両手で再現しようと苦心する彼女。

「シャチホコが庭に置いてあるくらいだよ。岡山城の古くなったシャチホコが一つだけね」

「なんだ、あるんじゃない」

 たいして興味が有るのか無いのか解りかねる彼女の会話は、何かお前から触れねばならない事があるのではないか、という脅迫めいた意図を孕んで、僕に向かって来るのだ。
「あのさ、前の飲み会の話なんだけど」
そう言った途端に目が据わる彼女である。

「なに?」

「途中で抜けて悪かったな。雰囲気を悪くしちゃったかなと思ってさ」

「......別に良いんじゃない?カナと斉藤君は、ああやって仲良くしてるんだし」

それ以降、我々の会話は続きはしなかった。だが、なおも居座る彼女の表情、自らのジーンズの縫い目を眺めるその顔から、目的地はまだ遠い事が伺える。


 奇妙な光景と言えば、そうに違いなかった。僕等は各々違う所を眺めるのみで、平和的結末や妥協には一向に辿り着く気配がなかった。
ついには、こんな面白味もない部屋を眺めるのに飽きたのか、それともジーンズの綻びに飽きたのか、彼女は窓縁に座って外から見える平城宮跡に視線を置いていた。
ライトアップされた朱雀門より返る黄色の光が空を覆う黒い雲に色を与えていて、僕がそんな事を思っていると「綺麗ね」と呟く彼女の姿はどこか寂しくもあって......。

「私、舞台に上がりたいんだ」

「舞台?女優という事?」

「照明さんでないのは確かよね。おかしい?」

「いや、別におかしくはないけど」

何故それを、僕に言うのだ。正直なところ、そんな感想しか出てこなかった。だが彼女は、別にこちらの意見など求めてはいないらしい。

「ウチって、小さな蕎麦屋でしょう?だから、そんな夢を見る事すら許されない気がするの。母さんは絶対に反対するだろうし。折角、良い大学に入れたのに、何を言ってるんだという具合にね。だから、私決めたの」

 軽快に自転車を漕ぐ彼女の姿、その躍動する身体はどことなく、夏の終わりを予感させた。
 季節の終わりに繋がりを持とうとしている、決して交わる事のない、いくつかの色彩。
小さな蕎麦屋、女優になる事を夢見る大学生の娘、やっとの思いで相手を見つけた斉藤君、そして、庭にシャチホコを置く家庭に生まれた、この物語おいては名も無き青年。
––それが僕だ。


 吉野の紅葉が色付き出した頃、我々はそんな中においても、未だ青々とした印象が拭えずにいた。ただ若過ぎたのだ。鮮明な色を持つ若者は、その思考を奥深くに追いやってしまい、やがて青色は微かに濁る群青へと姿を変えた。まるで、それが自らのあるべき形だと言わんばかりに。今はまだ名も無き群青、そんな思考は、夏から秋への移り変わりに別段影響される事はなく、また誰かがインクを携えてやって来る訳でもなかった。

 生駒山からの少し冷えた風が盆地に流れこめば、シャツから出た首元に鳥肌が立った。なんだかんだとバタついていた環境は鳴りを潜め、周囲は秋に順応しようとその身を落ち着かせている。
結局、あの日の晩、彼女はその際まで語った、決意という物を明らかにする事はなかった。
「だから私、決めたの」
そう言って、僕の手に給料袋を握らせた後、こちらを一目にも介さぬその真意は謎のままであったし、彼女の父、つまりバイト先の主人の腰痛が長引いてしまったおかげで、冬場に至るまでのシフトが失くなってしまった僕には、その答えを聞く機会というのも訪れはしなかった。


 久しぶりに大学の講義に顔を出せば、受ける必要のないはずの斉藤君が僕の横に座り込んで来て、言葉も発さぬ内から溜息を捻り出した。
「参ったなァ。いや、本当に参った」
彼らしいアピールだった。

「なに?振られたんだろ。分かるって」

「あのな、決めつけんといてくれ。俺が悩んでるのは、もっと崇高でお前が考えるには恐れ多いモノなんや。彼女がいない、お前には」


さして聞きたくもない話であった。彼の相手であるカナちゃんが、三重県の某デートスポットにどうしても行きたいとせがむ中で、原付免許以外を持っていない斉藤青年は困り果てているとの事だった。わざわざ横に来て、溜息混じりに話すそのやり方から、何を言われるのかは大体分かっているのだ。

「頼む!レンタカー代は俺が出すから、お前運転手してくれへんか?なんなら、今日の昼飯代も出してもええし......」

「こっちが運転してる最中、後ろでイチャつくカップルを見せつけられるわけだろ?」


敢えて否定せぬ返答は、またもや肯定の意味を孕んで彼まで届いたようである。斉藤君は「悪いな。頼むで」と言って、安堵の表情で颯爽と走り去ってしまった。講義中だというのに。

 何が悲しくて友人の運転手を務めなければならないのだ。バックミラーを覗けば、妙に密着する彼等の姿が視界に入るとでもいうのか。
そんな時、ある一つの案が頭に浮かんで来た。
少なくとも、僕が惨めには見えない案が。
それをどうにか抑え込むのに必死で、結局その日の講義については、何一つ記憶にない。

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