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「象の仔」の思ひ出

 かつて池袋の北口に「象の仔」という小さな喫茶店があった。
 昭和30年代に開業した、池袋でも最も古い喫茶店のひとつだったらしい。ケーキが美味しいことでも知られていた。

懐かしいマッチ

 1990年代のいつの頃からか、その「象の仔」は「街角」という名前に変わった。僕が知る象の仔の時代から街角の時代にかけて、切り盛りしていたのは簑島紀男さんと奥さんの明美さんのお二人である。
 
 僕が池袋北口の象の仔に毎日通い出したのは、1984年からである。独立起業して池袋西口にオフィスを借りた年だ。オフィスに出勤する前に象の仔でコーヒーを飲むのが「習慣」になった。週末や出張時やクライアント直行時などを除いて平日はほぼ毎日、年に150日は通っただろう。途中で店名が「街角」に変わり、2002年に豊島園に移転するまでの約18年間通い続けた。計算すると3000回は訪れたことになる。

 コーヒーを頼むと注文してから自家焙煎した豆を挽き、一杯ずつ丁寧に淹れてくれた。僕にとっての「美味しいコーヒー」とは、簑島さんが淹れてくれる、この象の仔、そして後の街角のコーヒーの味である。
 10人も入れば満員になる狭い店で、ドアを開けるとすぐ左側にケーキが並んだ小さなショーケース、奥へと続くカウンター席、右側には2人掛けのテーブル席が2つ。僕はいつもカウンターの中程に座って文庫本を読んでいた。ほんの二言三言、簑島さんや明美さんと会話することもあったが、基本的には読書をしていただけだ。出勤前の朝のことだから長居はしない。朝のひと時、ほんの15~20分をコーヒーの香が漂うこの店で過ごすだけで、今日も1日頑張って働こうという気力が沸いた。会社を立ち上げた直後の経営が厳しい時期を乗り越えられたのも、この朝のコーヒータイムがあったからこそである。

 そして僕は、この象の仔・街角に友人や会社のスタッフを連れて行ったことがないし、商談に使ったこともない。こんなに長い期間毎日通いながら、街角のカウンターはあくまで僕だけの大事なプライベトスペースだった。
 
 僕が初めて象の仔でコーヒーを飲んだのは、実は毎日通い始めた1984年ではなく、それよりずっと前、1973年のことだ。その年大学に入学するために名古屋から上京した僕は、キャンパスに近い東横線の日吉の下宿に住んでいた。僕が上京した同じ年に、中学校の同級生だった親友が親の転勤で東京に転居した。その転居先が所沢だったので、彼が西武池袋線で出てくるのに便利な池袋で待ち合わせて会っていたのだ。始めて池袋で彼と会った時に、たまたま入った喫茶店が象の仔だった。その年には数回象の仔で会っていたが、今度は僕が転居するなどいろいろあって、翌年以降は池袋に行かなくなり、それっきり象の仔に行くこともなくなった。後から聞いたのだが、僕が初めて象の仔を訪れた1973年(昭和48年)は、簑島さんも、奥さんの明美さんも時々お店を手伝っていたことがあったらしい。
 
 そして時代は移る。その後いったん名古屋に帰ったり就職してサラリーマン生活を過ごしたりする中、池袋にはほとんど立ち寄ることのない生活を送っていた。そして独立起業したのが1984年、初めて象の仔を訪れてから10年後に、僕は池袋の西口に自分のオフィスを構えた。そこでふと思い出したのが象の仔だった。この年からお店が移転する2002年までの18年間、僕は出社前にコーヒーを飲みに通い続けたのだ。
 
 物静かな店主の簑島紀男さんは、若い頃は俳優を志し、後に長く映画監督・黒澤明の演出助手をしていた人で、明るく美しい奥さんの明美さんは、元は女優さんだったそうだ。簑島さんはあまり自分のことは話さなかったが、後に豊島園に移転した直後の時期に、映画「デルス・ウザーラ」のソ連(当時)での1年以上にも渡るロケに助監督として黒澤明に同行して、極寒のシベリアを含む過酷な撮影現場でソ連人俳優とスタッフに囲まれて苦労した話を聞かせてくれた。
 
 第48回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した、巨匠・黒澤明監督が初めて撮った外国映画「デルス・ウザーラ」の撮影体制については、Wikipediaから引用しておこう。
 
 …デルス・ウザーラはモスフィルムの製作であるため、本来はスタッフもすべてソ連側から出るが、それでは黒澤に必要以上の負担がかかるため、黒澤の演出意図を細部にわたり的確に伝えるという目的で、数人の日本側スタッフの参加が認められた。参加したのは松江陽一と撮影の中井朝一、協力監督の河崎保と野上照代、演出助手の箕島紀男である。このうち河崎はソ連側の要請だったが、ソ連側の事情で途中降板した。日本側の製作窓口は、松江の製作会社アトリエ41が担当した。当初、デルス役に三船敏郎を予定し、三船も1973年にモスクワ国際映画祭の審査員に招聘されたときに製作準備中の黒澤を表敬訪問し、日程調整してやる気になっていたが、2年間を予定する撮影期間では調整が付かなかった。デルス役は現地で探すことになり、舞台俳優のマクシム・ムンズクが演じることになった。マクシムは実生活もデルスのように狩りや釣りが好きで、黒澤のイメージにぴったりな人物だった。一方、アルセーニエフ役は有名俳優のユーリー・ソローミンが演じることになった…
 
 また、この時のシベリアロケの状況については、「黒澤明 樹海の迷宮 映画『デルス・ウザーラ』全記録1971-1975」(野上照代 ヴラジーミル・ヴァシーリエフ 笹井隆男:小学館)や「完本 天気待ち 監督・黒澤明とともに」(野上照代:草思社文庫)などに詳しく書かれている。
 
 先に書いたように正確な時期を覚えていないが、店名が「象の仔」が「街角」に変わったことについては、いろいろな事情があったらしい。もともと象の仔という喫茶店は、都内に3か所あった。簑島紀男さんの親族が経営していたとのこと。簑島紀男さんも含めて、その親族というのは葉山の「日影茶屋」(石原裕次郎が通ったことで有名)を経営していた人達らしい。そこから簑島さんが完全に独立するに際して、店名を「街角」にしたとのこと。ちなみに、東武東上線のときわ台にあった象の仔も、同時期に店名を街角に変えているので、こちらも簑島さんが経営で関わっていたのかもしれない(詳しくは知らないし、行ったこともない)。
 
 店名が街角に変わっても、お店もコーヒーの味も変わらなかった。寡黙にコーヒーを淹れる簑島さんと、明るく接客する明美さんの二人が、客を和ませてくれるお店だった。そんな街角に突然の転機が訪れたのは2002年のことである。何でも、店を借りていた大家と地主が地代のことで揉めたとのことで、そのとばっちりで突然店を閉めて明け渡さざるを得なくなったのだ。簑島夫妻は、近辺で営業を再開しようと懸命に店を探していたが、場所が悪かったり賃料が高過ぎたりして手頃な店が見つからない。30年以上やってきた店をあきらめて閉店しようとしていた時に、救世主が現れた。
 象の仔時代からの常連の客で遊園地「としまえん」の関係者がいた。関係者といっても西武グループの重鎮で、「としまえん」のトップに近い人だ。ちょうどその頃、としまえんが大幅にリニューアルしようしていて、敷地内で豊島園駅前広場に面した和風建築への入居店舗を探していた。よかったらそこで喫茶店を営業しないか…という話で誘ってくれたのだ。何でも賃料も格安でいいとのことだったそうだ。
 
 そんな経緯で、街角は急遽、豊島園駅前に移転して営業を再開することになった。あまり喫茶店向きではない和風の広い建物だったので、店名も「あけの茶屋」となった。奥さんの明美さんの名前からつけたらしい。そしてすぐ隣に、今も流行っている都市型温泉施設の「庭の湯」がオープンした。
 オフィスや店舗が多い繁華街のど真ん中から住宅街の豊島園へ、しかも駅前広場に面しているとは言っても、としまえん遊園地の敷地の一角と、環境は大きく変わった。ビジネスマンや近所の商店主中心であった客層は、としまえんに遊びに来る家族連れと近辺の住宅街の住人が中心になった。そんなふうに環境が激変する中、あけの茶屋はけっこううまくやっていたと思う。屋外のテラス席を拡張したり、広い敷地の一部を貸しスペースのようにしてアマチュア画家や手芸家の作品展示を行ったりしながら、地域住民のオアシスとして機能しはじめた。近隣住民を中心とした常連客も徐々に増えた。
 
 そして、街角がこの豊島園駅前に移転したことは、僕自身にも好都合なことになった。なんと、当時の僕は豊島園駅の近くに住んでいたのである。毎朝、豊島園駅から池袋に通勤していたのだ。だから、最初に豊島園への移転話を聞いた時には、本当に驚いた。それまで、簑島さんにも明美さんにも僕が豊島園に住んでいることを話したことがなかったので、お互いにびっくりした。ただ、毎朝の通勤で豊島園駅を通る時にはお店がまだ営業時間前で、以前のように毎朝訪れることはできなくなった。それで週末の朝や夕方にコーヒーを飲みに行った。自宅の近くということで、大学生だった息子を連れて行ったこともある。当時長く住んでいた豊島園周辺には知人がたくさんいたので、僕もお店の紹介に一役買ったりした。頼まれて、ブロードバンド回線と無線LANスポットの設置をお手伝いしたこともあった。
 
 ただ、この池袋から豊島園へ移転する前後の時期は、簑島さん夫妻にとっては大変な時期だったと思う。ひとつには移転話が出た時期に、大事な息子さんを交通事故で亡くされたのだ。当時、悲しみの中で気丈に明るくお店で接客する明美さんを見て掛ける言葉もなく、胸が痛んだものだ。
 
 ともあれ、時々娘さんが手伝いに来るなど、移転後は順調に経営していたあけの茶屋だが、急遽2006年初めに閉店することになった。としまえんの経営母体が変わり(例の堤一族の失脚が関連している)、退去せざるを得なくなったのだ。移転してわずか5年間の営業だった。最後の閉店前日に、お店に常連が集まってささやかなお別れの会をした。夫妻は寂しそうだった。お互いに元気で、また機会があったら会いましょう…と挨拶しあったのが、結局最後の会話になった。
 
 あけの茶屋の閉店後、簑島さん夫妻はそれまで住んでいた東武東上線沿線の自宅を引き払って故郷の沼津へと帰って行った。その後15年以上お会いすることもなく、毎年元旦に年賀状のやり取りで互いの近況報告をしていたが、昨年のお正月、届いた年賀状の差出人が娘さんの名前になっていた。そこには、簑島紀男さんが亡くなったと書かれていた。
 昔まだ僕が若かった頃、毎日コーヒーを飲みに通った池袋北口のお店のこと、当時の自分が送った日々などを思い出し、ちょっと涙が出そうになった。1973年に始まり、50年近くにも及んだ不思議な人間関係が終わった。
 
 簑島さんが淹れてくれる美味しいコーヒー、シンプルな白いカップに入って湯気を立てるコーヒーは、もう永遠に飲むことは出来ない。

 以上が、僕の「象の仔」の思ひ出…である。

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