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エデュマル

やりすぎ教育

最近、武田信子さんの「やりすぎ教育」と言う本を読んで「エデゥケーショナル・マルトリートメント」と言う言葉を知った。

エデゥケーショナル・マルトリートメント。略してエデュマルとは、「大人が子どもに対して教育のつもりで行う、子どもの発達や健康にとって不適切な行為」(健康教室 Information Plaza 東山書房 2019年11月)だそう。

くそう。「エデュマル」ってめちゃめちゃ可愛い名前なのに、見えづらくて、子どもを傷つけてしまうなんて。。。

それはさておき。

具体例をあげてみよう。大人から子どもへのエデュマルの例として
○家庭におけること
・勉強、スポーツ、音楽、塾や習い事の強制
○社会的なもの
・大量の宿題
・受験戦争
・関心の持てないまま進む授業
・炎天下の部活
などが挙げられるそう。

ここで思うのが、社会的マルトリートメントである。マルトリートメントとは、Wikipediaでは、『日本では特に「大人の子どもに対する身体的・性的・心理的虐待とネグレクト」を包括的に指す』とも言われ、すごく単純化してみれば、「虐待」という概念に近いと思う。

私がニュースで見る「虐待」という言葉を聞くと「0か100か」「(はっきりとした)している側とされている側」がイメージとして浮かぶ。しかし、本当は、している側、されている側もはっきりしない。もっとグラデーションな感覚をもつ必要性があるのだと思う。

実際に、私も「無自覚のうちに、社会的にじわじわと、子どもを虐待している」のではないか、と思う。



『休んで、人に優しくなりました』
本日、元先生の方とzoomでお話しした。研究校に勤めて、ちらっとお話を聞くだけでも敏腕な先生だったんだろうなぁと思う。

しかし、ある子どもさんと関係性がこじれて、クラスの崩壊が始まったと言う。そのとと休職されたという。「原因はなんだったんですか?」と、少し踏み込んだ質問をした。その方は、丁寧に教えてくださった。

「学校は、こうでなければならないという思いが私自身強かった。」と答えた。だから、子どもが(大人から見て)問題行動を起こした場合、指導をしていたそう。

私は「休んでどうでしたか?」と聞いてみた。すると、その方は「休んで、優しくなりました」と答えた。

印象的な言葉だ。
「休む」とは、なぜか、良くないような感覚を感じてしまう。しかし、休むことが、余裕を生み、豊かさや優しさを生むなら、積極的に休める社会を作りたい。

うちが所属している会社は、みんなが全員休めるように必死にシフト調整をしている。本当に幸せな会社だと思う。

幸せを循環していくために、しっかりと休む。そんな学校、会社が一つでも広がったら良いなぁと思う。

あるオランダの学校では、クラスに担任が二人いて、一人の先生は、週に2日。二人目の先生は、週に3日と、ローテーションを回していた。

これは日本の学校でも可能なのだろうか。また、調べてみたい。

(明日、東京に行きます!ヒミツキチ森学園の見学!たのしみ)

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