言語と瞑想
真理に達するための方法は、おそらく「言葉を創るか」「言葉を捨てるか」の2択だ。
我々は言語化されていない概念を認識することができない。
そのとき、新しい言葉(例えば、民主主義やインスタ映え)を当てはめてそれを認識できるようにするか、
もしくは、その概念を「そのまま」認識するか、をしなくてはならない。
このうち、後者はどのような手段でそれを実現すれば良いのだろうか。
自然淘汰の考えでいけば、古くに生まれ、現存しているものこそが重要なファクターである。
その生き残りのうちの一つである「瞑想」という行為に着目してみよう。
「概念と認識」というテーマにおいて、「瞑想」はもしかしたら
「言語というフィルターを通さずに、世界をありのままの形で認識するための訓練」
なのではないだろうか?
したがって、この瞑想によって「悟り」に到達した釈迦は、「言語を通さない認識によって、世界をありのままで捉えることに成功した初めての人間」だったということなのかもしれない。
科学を通じて世界の真理にたどり着くには、現在から数えても望外な時間が掛かるだろう。
それこそ数百年から数千年、もしかしたらそれ以上。
しかし、所謂科学ではない方法を用いることによってある種のショートカットが可能かもしれないのなら、並行してそちらも試してみる価値はあるのではないだろうか。
我々が生きている間に世界を「正しく」認識するためには、「瞑想」のような、より感覚的な手法が必要とされるのかもしれない。
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