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正しいことと楽しいこと

先日、「整形したい娘と整形してほしくない母親」のテレビ番組を母と見ていた。


顔にコンプレックスがあってすでに100万を投じて整形しているものの、まだやりたいんだという娘に対し、ヒートアップしてしまうのが怖い、そもそも整形なんてしなくて可愛いのに悲しいという母親。

番組内で口論をしている場面があって「こんな平行線の話をしたところで…」と無力な気持ちになったけれど、これを見ながら正しいことと楽しいことについて考えることができた。


一緒に見ていた母親は「母親の気持ちは分かるし娘の気持ちもわかるけれど、なんとも言えない」といっていた。
それはそうだ、実際私が目の前で”整形したい”なんて言ったら、まず言葉より感情が剥き出しになることくらい想像できるし、こういうことは自分の身に起きてみないとわからなかったりする。


世間の尺度でみたら、一見整形をしないことは「正しいこと」かもしれない。
一方で、整形をすることで自分に自信が持てたり人生が「楽しいこと」に感じられるかもしれない。

そういう時は何が正しいのか。


私は、時として、【楽しいに勝る正しい】って、どこかに窮屈な要素が混在していると思うんですね。
例えば校則だって、それは窮屈だったかもしれないし、門限も本当は亡くして欲しい。特に未成年のころにそんなことが多くあり、それは、境界線がまだ曖昧な年齢だったり人生経験だから、見守る人が「ここまではいいけどここからはダメだよ」という目安を示しているんだと思っていて。

成熟したり、年齢が若くても人生それなりに苦労して自立している人はそのここまではいいけど〜ラインがわかっている傾向にある気がする。同じ年齢でも「あ、大人だな」と感じる人はこのようなありとあらゆる線引きを理解していることが多い。


話を戻しまして、社会人となり楽しさより正しさを優先的に考える人や、中にはそれを指導として教え込む人はいないだろうか。それは、目安でもなんでもなくてしんどさや息苦しさを感じてしまう。


つまり大人になってからの正しさの強要行為は残念だが好まれないし、最悪の場合人が離れてしまう。


逆にいつも人に囲まれている人はどうだろうか。なんとなく明るかったり楽しい感じがしないだろうか。

恋愛でいうとまさに、正論をいつもいう人よりなんだか楽しい人の方が一緒に居たくないでしょうか。


実はゲッターズ飯田さんがこのような言葉を本に残していて、確かにな〜と突き刺さるような気持ちになりました。



時として正論は人を傷つける凶器にもなり得る。

いつも楽しそうな陽気な人って、いいですよね。

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