見出し画像

私たちは世界を食べている。

日曜の朝は少し早く起きて掃除をする。お風呂、キッチン、水回り。いずれも排水溝を念入りに洗って、その次は掃除機をかける。ほこりを丹念にとったら最後は洗濯物をたたむ。

よし、これでばっちり。全部ちゃちゃっとやれば1時間くらいで終わる。いつからか日曜日の朝のルーティーンになった。洗濯物をたたんだあとにやることは、妻との食事だ。


ウインナーをパキッと焼き、お味噌汁をつくり、白米の上には納豆を置き、冷たいお茶をコップにいれる。


この朝ごはんが楽しみだから日曜日が好きだ。まるでご褒美のようでもある。私は普段めったに家事をしないダメ夫で、こういうご褒美がないとなにもやらない、そういうレベルなの。


朝ごはんを食べる。ウインナーをパキリと食べて、納豆と白米を食べる。もうおいしい。おいしいどころじゃない。そこにお味噌汁。具はもちろんお馴染みワカメだ。なんておいしいんだろう。それからお茶を飲む。冷たい自家製のよくあるお茶。

そうして妻と話す。

この日はあまりにウインナーがおいしかったから「ねぇ、このウインナーはどこから来たんだろう?」「このウインナーは豚だよね。どこにいた豚なんだろう」という会話から始まる。

別にどこにいた豚たちなのかは知らないし、この場でその答えが出なくてもいい。

それからこの白米と納豆。このお米はどこから来たんだろう? どこで栽培されたものなんだろう? 納豆だってもとは大豆だろうから、これもまたどこから来たんだろう?

まだある。お味噌汁の味噌も、具のワカメも、それからお茶も。お茶にいたってはもう「水」すらどこからきたんだろう?


なんて会話していると、私と妻の間でひとつの結論にいたった。



私たちは世界を食べている。


豚も牛もそれから鶏も、どこかで育てられている。何かを食べさせられている。こだわりを持った酪農家であれば、自由放牧をさせてのんびりと育てる。動物には太陽の光があたり、やわらかな風が吹き、地上の恵の中で育つ。

魚は。海を泳ぐ。水の中をスイスイ泳ぐ。深い海の青。冷たいのか暖かいのか、とにかく塩っからい海の中を。養殖でもなんでも、とにかくどこかの海の中を泳いでいたものが、いろんなルートを経てテーブルに並ぶ。

米も大豆も。私が育った小さな町のような風景の中で、青空のした、風を受け、子どもたちの声を浴びて、ときに雨、やっぱり日光、その土地の空気の中で育つ。土の匂いがなつかしい。



私たちは食べ物を食べているようで、実は世界を食べている。気づかないけれど、世界を作る森羅万象はすべて見えない鎖みたいなものでつながっている。

食べ物を食べているようで、太陽を食べ、風を食べ、水を食べている。食べ物が食卓に並ぶまでにもたくさんの要素が絡まる。このテーブルに食事が並ぶまでには、無数の「人」が介在しているはずだ。

これすらも森羅万象すなわち世界であろう。

妻と話す。

「そういや、高校のときの友だちのユウヘイとご飯に行くとさ、あいつは必ずいただきますとご馳走様でしたを、手を合わせて大きな声で言うんだよ」

「へぇ、それは親の影響なのかもね」

「あいつはいいヤツだからなぁ」

「世界に感謝してるってことだね」

「やっぱ世界だよな」

「うん、世界ね」


日曜の朝はとにかくウインナーがおいしくて。この時間がいつまでも続いたらいいのに、って毎週思う。

そういう話。


〈あとがき〉
世界を食べている、ってキユーピーあたりがやりそうなキャッチコピーです。こういう系のキャッチコピーの名作といえば、ミツカンの「やがて、命にかわるもの」ですが、このコピーを担当したコピーライターは、かの故岩崎俊一さんです。過去に岩崎さんにお会いしたことがあるのですが、そのエピソードはまたの機会に。今日も最後までありがとうございました。


【関連】私と妻のなんでもない日常

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?